第五章 シオ ~現実の話~

第25話 シオ・10 ~記憶~


 シオはハッとして、目を覚ました。

 

 天蓋を見ると、それは見慣れた自分の部屋のものだった。

 辺りは薄暗く、常夜灯の灯りだけが微かに揺れている。

 シオは寝台の中で半身を起き上がらせ、濡れた感触のある目元を拭った。


(夢……か)


 また、あの夢だ。

 十二の時に夕星と結婚し、夫婦として生きる夢。

 ありえたかもしれない、だが、結局はありえなかったもうひとつの人生。


(それにしても……)


 シオは夢の内容を思い出して、俯いて吐息する。


 以前見た夢にも増して、ひどい夢だった。

 夢から脱け出しても、心にはまだ怒りの火種が残っている。

 留守の間に自分を裏切った、夕星への激しい怒りは自分のものでありながら、今の自分とは違う人間のものだった。

 十二の時から夕星の妻として生きてきた少女の怒りだ。


 だからこそわかる。

 なぜ、夢の中であんなに自分が我を忘れ怒り狂ったのか。

 そしてそれほど強い怒りに囚われたにも関わらず、なぜ夕星のことを最後まで問い詰めず、強がって負け惜しみの捨て台詞を吐いて、逃げるように部屋から飛び出したのか。


 ミトの言う通りだ。

 夢の中の自分は、十二の時から五年も妻として側にいたというのに、夕星のことなど何ひとつわかろうとせず、自分の気分や感情をぶつけてばかりいる。それでいながら、夕星に向き合わなければならない時は、それを恐れて逃げて行く。


(『あんた』は、夕星さまと一緒になれたのに。……ずっと一緒にいられたのに)


 そうして、これからも夫婦として一緒にいられるというのに。

 一時の意地と感情で、その幸運を投げ捨てようとしている。

 今の……夢の外にいる現実のシオからすれば、にわかには信じがたいほどの愚かさだ。


(何か事情があるのよ。夕星さまは、嫌とは言えないかただから。きっと変態爺さんに、屋敷に招待したいだけだから、とかうまく言いくるめられたんだ。何でそんなことがわからないんだろう)


 たかだか夢に過ぎないというのに、夢の中の自分に腹が立ってしまう。



 それからふと、夢の中で出てきた名前を思い出す。


(ミハイル伯……?)


 確か、イヴゲニの前に夕星を手元に置いていた人物だ。

 善意のみで引き取ったとは考えられないが、シオがかき集めた情報の中でもミハイル伯についてはさほど色めいた話は出てこなかった。

 他所で作った子供を見つけて引き取ったのではないか、と言われるくらい、大切に世話をしていたらしい。

 それを皮切りに、普段は表に出てこない記憶が次々と出てくる。


 ミハイル伯は、前皇帝の侍従長を務めた人物で、その縁で現在の皇帝の養育係の一人になった。表向きの華やかな権勢とは縁遠い存在だが、皇家の私的な部分に深く関わっているために、強い影響力を持っている。

 本人は穏やかで篤実な人柄で、権力闘争に巻き込まれないように、滅多に皇家に対する影響力を行使しない。

 皇帝の教育係を退いてからは宮廷からは離れた、郊外の館に引っ込んで静かに暮らしていたが、一年ほど前に死んだ。


 そう、夢に出てきた通りだ。

 というより、夢のほうがシオの記憶の中から何かしら関連性のあるものを選んで、内容が構成されているのだろう。


(そうだ、確かあの時……爵位継承の審議を起こされたとき……)


 夢の中と同じように、父親から爵位を受け継いだシオに対して、公家の後継者としてふさわしいかどうかの審議が提案された。

 これまで前例がなかったわけではないが、爵位は基本的には男しか継ぐことは出来ない。

 ククルシュ公爵家に対して借金がある貴族たちが中心となり、審議を起こされたのだ。

 爵位の継承が認められなければ、シオは貴族とはいえ何の地位も持たなくなる。宮廷に伺候も出来なくなり、いくつかの所領を手放さなければならない。


 公爵位という地位がなくなれば、今まで周到に作り上げてきた権益も維持できるか危うい。

 表向きは涼しい顔をしていたが、裏では審議を却下させるためにあらゆる伝手つてを求めて、駆けずり回っていた。

 しかし決定打を打つことは出来なかった。

 皇帝の裁可がどちらに転ぶか分からず、胃が痛くなるような日々が続いていた。


 だが結局は。

 夢の中と同じように、皇帝はあっさりと「まあいいだろう。ククルシュには、力を尽くしてもらいたい」と言い、審議自体が公のものとはならなかった。

 安堵の余り、全身の力が抜けると共に、一体、誰の力によってこれほどあっさりと皇帝が翻意してくれたのだろうと不思議だった。


 その相手が誰だが知ったときはさらに驚いた。


(そうだ、あの時、ミハイル伯が陛下に口添えをしてくれたって聞いて……)


 感謝の念はあったが、それ以上に驚きのほうが大きかった。

 その時までミハイル伯とは、何の縁もゆかりもなかったのだ。シオが子供のときに一線から退いたミハイル伯とは、付き合いどころか顔すら知らなかった。

 そんな人がなぜ、郊外に引っ込んでからはほとんど近づくこともなかった宮廷にやって来て、わざわざ自分のために口添えをしてくれたのか。


 シオは急いで礼状を送り、その中に近いうちに挨拶に伺いたいと書き記した。

 ほどなくして「ぜひお目にかかりたい」という丁寧な招待状を受け取ったため、山のような贈り物を積み込み、ミハイル伯の屋敷へと向かった。

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