第24話 夕星・15 ~夫婦なのに~
「ミト、下がれ。お前には関係のない話だ」
「関係がない?」
シオは鋭い鞭のような声音で、夕星の言葉を遮った。
「関係がないわけがないでしょう。ミト、あんたが全部知っていて、夕星さまが出かけるための手引きをしていたならお役目の怠慢……ううん、主家に対する裏切りよ? そんな人間をここに置いておくわけにはいかない」
「シオどの、ミトは……」
夕星が何か言うよりも早く、ミトが床に手をつき平伏し、大きな声を上げた。
「シオさま! おっしゃる通り、
「ミト!」
強い声で名前を呼ばれ、ミトはハッとして夕星のほうを振り返る。訴えかけるような夕星の紫の瞳をしばらく見つめたあと、ミトは唇を噛んだ。
そんな二人の様子を、シオは怒りと冷たさが微妙に混じり合った目つきで眺める。
「何よ、言いたいことがあるなら言いなさいよ。自分から主を裏切ったと認めたんだから、どんな罰でも受ける覚悟は出来ているんでしょうからね」
「シオどの、ミトには私が無理に頼んだのだ」
夕星がすがるように、シオに訴えた。
「ミトはまだ子供だ。許して欲しい」
「子供? 自分が何をしでかしたかは分かるには十分な年だと思いますけれど」
「はい、分かっております」
シオの言葉に、ミトは反駁するように叫んだ。その声には、シオの怒りにひるむまいと自らを叱咤するかのような気迫がこもっていた。
「私は夕星さまにお仕えする者です。ですから、夕星さまが私に頼んだことを、自分自身の意思でお受けいたしました。そのことについては、何も申し開きはいたしません。シオさまのお望みの通りに、いかようにも罰して下さい。ですが……、私は夕星さまのお側を離れません。つい先ほどまでは、シオさまのご勘気をこうむったのであれば、夕星さまのお側から離れるのは仕方がないと……そう思っていました。
でも、今はっきりとわかりました。私がいなくなれば、夕星さまのことを考える者は、誰もいなくなってしまう! 誰一人、夕星さまのことを考えて下さらない。夕星さまご自身も。だから、私は夕星さまのお側を離れません。シオさま、あなたに夕星さまをお任せすることは出来ません!」
「お任せ出来ない、から何よ?」
しばらくの沈黙のあと、シオは呟いた。薄気味悪いほど低い声だった。
「何が出来るのよ? あんたなんかに」
ミトはシオの顔を見上げながら言った。
「シオさま、なぜあなたは奥方さまでありながら、夕星さまのことがお分かりにならないのですか? 夕星さまがどんなご気性で、どんなことを考えてらして、どんな風な気持ちで過ごしていらっしゃるのか、今もなぜ、あなたさまのご詰問に何も答えないのか、なぜ何も言わずに責められるがままになっているのか、本当におわかりにならないのですか?
あなたさまは……夕星さまのことなんて、いっぺんだって考えられたことがない。長いあいだ、お側にもいらっしゃらないで……ほったらかして、だから何もお分かりにならない。ご夫婦なのに、ずっと、ご夫婦として生きてらしたのに!」
シオは瞳を大きく見開いたまま、ミトの決死の表情を凝視していた。
何度かミトの背後にいる夕星に視線を向けかけ、何かを畏れるかのようにすぐに目を逸らすということを繰り返す。
嘲りの形に歪んだ唇は、意思の力でかろうじて保っているという風で、途中で何度かその力を失いかけた。
ミトの最後の叫びが室内に響き、消えかけた時には、シオの顔は真っ青になっており、そのままその場に崩れ落ちそうに見えた。
だが次の瞬間、自らの中の怒りを掻き立てるように蒼白な顔のまま唇を引き結び、表情を侮蔑と嘲りでねじ曲げ、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「長いあいだ、留守にしていたから夫が浮気しても当然だって言うの?」
シオの言葉には、ミトと……それ以上に夕星を傷つけようという意図がはっきりとこもっていた。
「そうね、そうかもしれない。貴族にとっては、結婚なんて名目上だけのものなんだから。むしろ結婚したからって、夫や妻だけを相手にするほうが馬鹿にされるからね。あんた、子供のくせに随分、さばけているじゃない」
シオは何か目に見えない圧力を跳ね返そうとするかのように、大声で笑った。その声は部屋の中で虚ろに響いた後、まるで見えない穴に吸い込まれでもしたかのように余韻も残さずに消え去った。
シオは唐突に口を閉ざすと、サッと踵を返す。
夕星とミトに背中を向けたまま、奇妙に感情が抜け落ちた口調で言った。
「夕星さま、確かに私はよくあなたを理解していなかったようです。あなたのお相手としては、私ではご不満だったのでしょう。成り上がりだから、貴族の流儀は言ってもわからないだろう、言えば身分の低い者のように騒ぎ立てるだろうと馬鹿にされているのでしょうがそんなことはありません。別に、夫が他の相手を作ろうが遊び歩こうが、何とも思いませんよ。
ただ、何も言わずにそういうことをされるのは迷惑だと思っただけです。いくらそういうことが珍しくなくとも、世間体がありますからね。男同士で、しかも七十のお爺さんが相手で何も知らないんじゃあ、私の面目が丸つぶれですから。そういうご趣味であれば、私では不足と言うのも納得がいきます。それなら仕方がないじゃないですか。私は女で……どう頑張ったって……男にはなれないんですから」
シオはそこで言葉を切った。
大きく息を吸い込む音がしたあと、振り返らず言葉を続ける。
「だいたいのことは分かりましたから、お好きになさって下さい。大丈夫ですよ、いくら遊び歩いても、もううるさいことは申し上げませんから。
ついでにそこの、あなたに対して忠義者の小姓は、二度と私の目に触れさせないようにしてください。私の目に触れたら、息の根が止まるくらいブチのめして屋敷から追い出します」
奇妙に虚ろな声で、シオは呟いた。
「尤も……私はもうここには来ないので……その心配もないですけれど」
「シオどの……」
「では」
シオは短く挨拶をすると、後も振り向かず部屋から出て行った。
背中に届く、夕星が自分を呼ぶ声を振り切るように、素早く回廊を走る。走っているうちに、自分の身が人間の体から黒い狼の体になっていくことがわかる。
追いつかれないように回廊を飛び出して庭へ行き、垣根を乗り越えて自分の棟の庭に戻る。
見えないはずなのに、夕星が自分を追いかけるために部屋から回廊に飛び出したことが何故か分かる。そうして真昼の庭の中へ飛び出た自分を追おうとした夕星が、ミトに止められている様子も。
(なぜあなたは奥方さまでありながら、そんなに夕星さまのことがお分かりにならないのですか?)
(あなたさまは……夕星さまのことなんて、いっぺんだって考えられたことがない)
(長いあいだ、お側にもいらっしゃらないで……ほったらかして、だから何もお分かりにならない)
(どう分かれって言うのよ。何も話してくれないのに)
力尽きたように回廊に崩れ落ちた夕星の姿を思い浮かべながら、シオは考える。
自分だって夕星の側にいつもいたかった。
でも、やることが山のようにあるのだ。
それをすることで、夕星のことを守っているのだ。
それをすることが、夕星を守ることになるのだ。
そう思っていたのに。
夕星となるべく一緒にいられるよう、一緒に出掛けられるようにする方法だって考えていた。
貴族なのに、政略結婚なのに、夫に惚れこむなんて馬鹿みたいだ、と思われても構わなかった。
体の弱い夕星を守って生きて行こう、それが自分の務めなんだ、そう思っていたのに。
(夕星さまの馬鹿……っ)
呟くと同時に、蒼い瞳から涙が溢れた。
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