第7話 夕星・5 ~館~
一体、どれくらい経ったか。
腕の痺れが耐え難いほど強まったころ、狼はようやく速度を緩めた。
灯りを落としているためにわからないが、広大な敷地を持つ屋敷の裏門らしき場所に入り、慣れた足取りで離れのような小造りの館へ入っていく。
部下の狼たちは、あらかじめ取り決められていたかのように、門の前で散り散りになった。狼の背から下ろされたミトは、歩いて付き従った。
夕星は腕を離し、狼の背中の上で横座りして、辺りを見回す。
暗くてよく分からないが、記憶の中にある見慣れた場所だった。
(ここは……)
館の奥へ進めば進むほど、その記憶が鮮やかに甦ってくる。
館の中には、幾人か側付きの侍女や下働きの者たちがいた。
不思議なことに彼らは、黒い狼の姿を見てもまったく慌ても驚きもせず、あたかもこの館の主を迎えるかのように、脇に控え、恭しく頭を下げた。
狼は館の一番奥の部屋に着くと、夕星を背中からゆっくりと下ろす。そうして後のことを気にする様子もなく、部屋から出ていった。
部屋には幾人かの小姓と、いかにも差配することに慣れたような、厳めしい顔つきの年配の侍女がいた。
狼の背中から夕星が下りるのを待ちかねたように、小姓たちに合図を送る。
「ご入浴と着替えの準備を」
小姓や下働きの者にてきぱきと指図すると、侍女は貴人に接するかのように、頭を下げた。
「お待ちしておりました。まずはごゆるりと湯につかわれ、疲れをお取り下さい。そのあとは軽く何かお召し上がりになりますか? お休みになられるようであれば、寝所のご用意も出来ております」
「あのっ、ここは……どなたかのお屋敷、でしょうか? どなたの……」
横から口を挟んだミトの顔を、年配の侍女はジロリと睨む。
こんな未熟な年若い者が、自分の仕切りに口を出すなど信じがたい。そう言わんばかりの眼差しだった。
「とりあえず今日は、旅の疲れを癒されますよう」
侍女はミトのことは視界に入らないかのように、夕星に向かって言った。
丁寧で十分に礼を尽くした口調だが、その奥には有無を言わせない、鋼のように固いものがあった。
「でもっ、どなたかわからないかたの屋敷で世話になるなど……っ」
「ミト」
なおも不満を口にしようとするミトを、夕星は押し留めた。
「誰かもよくわからない人間の世話になる」のは、今までも同じだ。
物のようにあちらからこちらへ移され、相手の思うがままに扱われ、欲望の捌け口にされる人形のような人生。
次の主人がなるべく寛容な人間であることを願い、置かれた場所で生きるしかない、愛玩動物のような人生。
それは今に始まったことではなかった。
夕星は湯場に案内され、人形のように体を磨かれ清められた。
初めて自分の肌を目にした小姓たちが、賛嘆と憧憬で頬を赤らめるのがわかる。
湯殿で体を洗われといる時、ふと先ほどのイヴゲニのように、この館の主が入ってくるのではないか、という考えが浮かんだ。
湯気が立ちこめる洗い場の中で、目をこらし、入り口を見つめる。
そうすれば、あの闇色の狼が姿を現すのではないか。
そう考えた瞬間、先ほどまで自分がしがみついていた剛い豊かな黒い毛並みの感触を思い出した。
体の内奥が熱くなり、男しかもち得ないものが、湯の中で固くなっていくのがわかる。
だが、館の主も黒い狼も、結局は姿を現さなかった。
そのことに、心に穴が開いたような感覚を覚えた。
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