第6話 夕星・4 ~黒い獣~
「何だ」
イヴゲニは大して関心を払わなかった。
人が来たことで夕星が羞恥に身を震わせるのを見て、むしろいっそう欲情を高ぶらせたようだった。
入ってきた小柄な人影は、寝台の中で行われていることを察し、一瞬、近寄るのを逡巡したようだった。
だがすぐに、慌てたように言葉をまくし立てる。
「ミトです。旦那さま、大変です! 屋敷に獣の群れが……っ」
「獣、だと?」
イヴゲニはそこで初めて、部屋に入ってきた者に注意を向けた。
寝台に引かれた薄い
「獣? 獣が……何だと?」
「黒い獣の群れが押し寄せてきて……、護衛の者たちが防いでおります。だけど数が多く、とても追い払えません。旦那さま、お逃げ下さい! 夕星さまをお連れして」
ミトの言葉にイヴゲニは舌打ちし、起き上がった。
「一体、何を言っておるのだ、お前は。おおかた、野犬か何かの群れだろう。追い払え!」
「野犬ではありません!」
ミトの声が、恐怖に震える。
「野犬などではありません! あれは……怪物のような……」
「怪物だと……?! 馬鹿なことを」
寝台から出てきたイヴゲニは、ミトの言葉に、半ば馬鹿にしたように半ば怒りを露にして、声を張り上げようとした。
平伏している少年を見下ろし、傲慢な表情で口を開けようとした瞬間。
開け放たれた扉から部屋の中へ、黒いつむじ風のような影が飛び込んできた。
その影は怯えたように身を縮こまらせたミトの体をひと飛びで飛び越え、いままさに横暴な声を放とうとしていたイヴゲニの喉に食らいついた。
一瞬の出来事だった。
イヴゲニ自身は、自らの身に何が起こり、なぜ自分が死んだのか、最期まで分からなかったに違いない。
鋭い牙でえぐられた喉からは、大量の血が噴き出しす。その赤黒い血は、寝台を覆う帳にも飛び散り、ドス黒い染みを作った。
瞳を大きく見開いたまま、イヴゲニの大柄な体はその場に倒れ伏した。
ミトは、恐怖に染まった叫びを上げた。
床に尻餅をついたまま意味をなさない大声を上げ続け、その合間に寝台にいるはずの主人に「お逃げ下さい」と必死に訴える。
イヴゲニを一瞬で絶命させた黒い影は、叫び続けるミトには一顧だにしなかった。
その大きくしなやかな体をゆっくりと動かし、寝台の中に入っていく。
寝台の中で半身を起き上がらせた夕星は、中に入ってきた黒い影を魅せられたように眺める。
それは人の背丈ほども大きさがある、黒い毛並みの狼だった。
夕星をジッと見つめる瞳は、夜のように深く蒼い。
狼は寝台の上に乱雑に散らかっている衣服をくわえると、夕星のほうへ放った。
狼が何を言わんとしているか、夕星には何故かわかった。
まるで狼と自分にしか分からないやり方で、会話をしているかのようだった。
夕星は薄闇に包まれた寝台の中で、狼に背を向けて衣服を身につける。
黒い狼は、闇の中に仄かに浮かび上がる白い肢体が衣服によって徐々に隠されていく様子を、ジッと見つめていた。
夕星が身支度を整えると、狼は体を伏せた。
夕星は少しためらった後、その背に身を預け、黒い毛並みで覆われた太い首に腕を回す。
狼の体からは、生々しい人の血の匂いがした。
狼は夕星が自分にしっかりとつかまったことを確認すると、身軽に寝台から外へ飛び降りた。
部屋にはいつの間にか、何匹もの狼が集まってきていた。夕星を背負った黒い狼が歩き出すと、狼たちは脇に退いて道を開ける。
「私もっ……」
歩き出した狼の前に、ミトはいざるようにして体を投げ出した。
「私も連れていって下さい! お願いします! 夕星さまと一緒に……っ」
ミトはそう言って、夕星を背負った黒い狼に必死に訴えすがりつく。
少年にとりすがられて、狼は立ち止まる。人間であれば肩をすくめたような雰囲気があった。
黒狼が周りに控える群れに視線を向けると、すぐに一匹の灰色の狼が進み出た。
黒い狼よりも一回り体が大きく、どこかふてぶてしい雰囲気がある。灰色の瞳には、油断のならない酷薄な光が宿っており、こめかみから左目の下にかけて、ほとんど消えかかった古い傷痕があった。
灰色の狼はミトの服をくわえると、勢いをつけて自分の背に放り上げた。勢い余ってずり落ちそうになりながらも、ミトは何とか灰色の背中にしがみつく。
黒い狼はその様子を確認すると、部屋から飛び出した。
部下を引き連れ、黒い一陣の風となり、荒れた屋敷から夕星を連れて夜の中を駆けて行く。
夕星は振り落とされないように、目を閉じてその黒い毛並みにしっかりと掴まった。
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