第21話 夕星・12 ~帰ることが出来る場所~

1.


 夕星が寝台に横になると、シオはその額に手を当てながら、囁いた。


「少しお休みになって下さい。私も下がって、横にならせていただきますので」


 そう断りを入れ、水を張った手洗を手に取ろうとしたシオは、ふと夕星の紫色の瞳がジッと自分を見つめていることに気付く。


 シオは軽く笑うと、身をかがめて夕星の唇に自分のそれを合わせた。

 合わせただけですぐに離れようとしたシオの首に、夕星は腕を回し、体を引き寄せる。

 シオの存在を求めるように、深く唇を合わせた。閉じられない口元から唾液が溢れ、顎を伝ったが、それでもなお足らないと言いたげに、夕星はシオの唇を吸い続ける。


「……駄目ですよ、夕ず……」


 シオの言葉は舌をからめられたため、最後まで声にならなかった。

 常夜灯ひとつに照らされた静かな空間に、二つの唇と舌が絡み合う音だけが響く。



 しばらくして、シオはようやく夕星の腕から解放され、体を起こした。


「もうっ。少し離れていたあとはすぐこれだ」


 シオは半ば照れたように、半ばからかうように笑ったが、表情には怪訝そうな色があった。

 自分から強引に口づけを求めるなど、夕星には珍しいことだ。

 寂しげな表情を隠すように俯いている夕星の顔を覗きこむ。


「お元気になられたら、いくらでも抱いて差し上げますよ」


 シオは、そう言ってからため息をついた。


「……私だって、夕星さまと色々したくて仕方がないんですよ。……いつも楽しみにしているんですから」


 夕星はハッとしたように顔を上げた。


「シオどのも、私のことを考えるのか?」

「そりゃそうですよ」


 シオは力を込めて言ってから、口元に手を当てる。

 気持ちを落ち着かせるように軽く咳払いすると、桜色に染まった夕星の頬に手を伸ばした。


「夕星さまは、『私が外へ出たまま、どこかへ行ってしまうんじゃないか、と不安になる』とおっしゃいましたよね?」


 夕星の顔を見つめるシオの蒼い瞳が、常にない柔らかく優しい光を宿す。


「私も同じです。もし、帰った時に夕星さまがいらっしゃらなかったら、どこかへ消えてしまっていたらどうしよう……そう思って、どうしようもなく怖くなるときがあります。そういう時は、すぐにあなたの下へすっ飛んで帰りたくなるんですよ」


 軽く瞳を見開いた夕星を見て、シオは微笑んだ。


「夕星さまがいらっしゃらなかったら、私は『どこかへ行くこと』しか出来ませんでした。あなたがここにおられるから……待っていて下さるあなたがいるから、私は『帰ること』が出来るんです」


 夕星が目元を赤らめたのを見て、シオは急に照れ臭くなったのか、顔を背けて声を大きくした。


「でもっ、ずっとここにいるんじゃあ、夕星さまも退屈されますよね。近場に行くときは、ご一緒出来るようにしましょう。気候の穏やかなところなら、お体にもいいかもしれませんね」


 夕星は、透き通るような笑みを浮かべて小さく頷く。

 シオはしばらく夕星の顔を見とれていた。

 ハっと夢から覚めたように、慌てて手洗と使い終わった布を手に持ち、挨拶もそこそこに出ていった。



 静かになった部屋の中で、夕星は瞳を閉じ、胸に当てた手を握りしめる。


(待っていて下さるあなたがいるから、私は『帰ること』が出来るのです)


 シオの言葉は、いつも夕星の体の一番深いところに届き、体を温めてくれた。

 その心地よい温かさにくるまれて、夕星は眠りに誘われていった。




2.


 目を閉じてから、どれくらいたっただろうか。

 ふと。

 部屋に入ってくる人の気配を感じて、目を覚ました。


 シオが戻ってきたのか。

 しかし、夕星はその考えをすぐに打ち消す。

 これは……シオの気配ではない。

 隠れなければ。

 考えるよりも早く、恐怖で冷たくなった全身の感覚がそう叫んだ。 

 に捕まってはならない。

 夕星の体の中の最も鋭敏な部分が、そう悲鳴のような声を上げている。

 

 だが気配は、既に寝台の外に張り巡らせた御帳のすぐ外まで近づいている。どこにも逃げる場所はなかった。

 夕星は外からの僅かな光が浮かび上がらせる暗い闇の中に体を隠すように、身を縮こまらせる。

 お願いだ、部屋から立ち去ってくれ。

 夕星は目を閉じ、寝台の中で必死に祈る。


 御帳をまくる気配がし、その気配はかけ布越しに夕星の体に触れた。


「殿下……」


 密やかな声が、闇の中に響く。

 聞き覚えがある男の声だ。


「……お休みになられているのですか?」


 男は囁きながら、布越しに夕星の体の線をなぞる。ひどく執拗な手つきだ。

 布越しだと言うのに、男の手が動くたびに、まるで肌の上を細かな虫が蠢くような、泣き出したくなるような不快さを感じる。

 夕星は、男の言葉には答えず、身を固くして男の手の感触の不快さに必死に耐えた。

 そうして男が夕星が寝ていると思い、その場から立ち去ってくれるようにただ必死で祈った。

 やがてその手が、我慢できなくなったと言いたげに、かけ布を乱暴にはいだ。


 夕星はそれでも、瞳をつぶってジッとしていた。

 もう一度、シオの夫となっていた、あの夢の中へ戻らせて欲しいと目に見えない何かに必死に祈り続けた。


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