第22話 夕星・13 ~冷たい怒り~

1.


 次にシオがやって来たのは、夕星の熱が下がってから五日ほど経った後のことだった。

 

 この五日ほど、夕星は落ち着かない気持ちで日々を過ごしていた。

 屋敷にいる時は常に夕星の側にいるシオが、なぜこれほど長い間、顔を見せないのか、不安で仕方がなかった。


(でもっ、ずっとここにいるんじゃあ、夕星さまも退屈されますよね)

(近場に行くときは、ご一緒出来るようにしましょうか)


 夕星は五日前、熱で寝込んでいたときにシオが言っていたことを思い出す。

 もしかしたら。

 出かける予定が決まり、自分も一緒に連れて行くための準備で忙しいのかもしれない。

 様子伺いのふみを送っても、ひと言の返事すら帰って来ないことによって、さらに膨れ上がった不安を、夕星はそう考えて宥める。

 さりげなく様子を聞くと、文使いに行ったミトは困ったような顔をして言った。


「申し訳ございません、夕星さま。私も直接は、シオさまにお会いしていないのです。忙しいとのことでしたので、文はお側の侍女に預けたのですけれど」


 ミトはそれだけ言って口をつぐんだが、その申し訳なさそうな、悔しそうな顔を見れば、「夫の手紙を代理の者に渡すなど聞いたこともない」などと言って、食い下がったことは想像がつく。

 主の務めを果たせなかった、とミトが自分を責めていることが分かるので、夕星としてはそれ以上、問いを重ねることは出来なかった。


「どれだけ忙しいか知りませんが、夫の下へすらろくろく顔を出さないなど、妻としてどうなのですかね。普段だってほとんど屋敷にいないのに、戻って来ていてもほったらかしなど……あんまりな仕打ちです。しかも夕星さまは、皇家とも縁のあるお方。夫婦とはいえ、こちらが主筋ではないですか」

「こちらに戻ったときは、宮廷へも伺候せねばならないだろう。他の方々との付き合いもある。そういう忙しい身の上なのに、先日、私が倒れたときは見舞ってくれたのだ」

「妻が夫の面倒を見るのは当たり前ではないですか。夕星さまがお優しいことをいいことに、気儘にしすぎですよ」


 いつものことだが、ミトの不平不満を夕星が宥めてやらなければならなかった。

 その時、新参の小姓が部屋に駆けこんできた。


「おい、無礼だろう。御前だぞ」


 それまで文句を言っていたミトはすぐに口をつぐみ、夕星付きの一の小姓らしい威厳を見せて入って来た小姓を叱る。


「も、申し訳ございません」


 叱られた小姓は慌てて室外の回廊で頭を下げた。


「ただいま、奥方さまがこちらへいらしていまして」

「いいよ、もう来ているから」


 小姓の言葉が終わらないうちに、別の声が響く。

 シオは断りも入れずに、大股で室内に入って来た。

 呆気に取られているミトの顔をジロリと見ると、素っ気ない口調で言った。


「ミト、席を外して。夕星さまと二人になりたいの」

「し、しかし……っ!」


 余りに傍若無人なシオの態度に、ミトは声を上げた。


「シオさま、少し無礼が過ぎませんか。案内も待たずにいきなり入って来て、人払いとは。この館のあるじはあなたさまかもしれませんが、この部屋の主は夕星さまです」


 言外に「なぜ自分がお前の命令を聞かなくてはいけないのだ」という含みを持たせて、ミトは怒りを含んだ眼差しでシオの顔を睨んだ。



 シオは性格がひどく気儘なので、こういうことは前からあった。庭から突然回廊に上がって来ることも、しょっちゅうだ。

 だが登場の仕方は型破りでも、そこには常に夕星に仕える者たちへの配慮や尊重の念があった。

 何より、夕星への忠誠を第一と考えて、夕星のためならば自分に対しても物おじせずに言葉を返し、恐れげもなく向かって来るミトの気性を、シオは気に入っていた。

 表向き二人は衝突してばかりに見えるが、少なくともシオのほうは本気で腹を立てることもある反面、そのことを密かに喜んでもいることに夕星は気付いていた。


 しかし、今日のシオは違った。

 ミトが言い返した瞬間、冷たく凍りついた炎のような怒りが蒼い瞳を燃え上がらせる。

 ミトがひるんだように身を震わせたのを見て、夕星は素早く声をかけた。


「ミト、下がっていなさい。珍しい水菓子を取り寄せたから、皆で食べて少し休むといい」

「で、ですが……」


 ミトは心配げな眼差しで夕星を見つめ、次いでシオにちらりと視線を走らせる。

 シオは固く強張った表情のまま、他のことには関心を払わずに、ただただ夕星の美貌をジッと見つめていた。

 シオのただならぬ様子が、ミトの躊躇いを大きくしたが、再度夕星に促されると渋々と言った様子で部屋から出て行った。



 部屋には夕星とシオのみが残された。

  東方風にしつらえられた部屋には、床にじかに座るように柔らかく厚い敷物が何重にも敷かれている。

 シオは特に断りもせず、夕星の顔にピタリと視線を当てたまま、ドスンとその敷物の上に腰を下ろした。

 熱を出した日の夜とは、余りに違う様子に、夕星はわずかに紫色の瞳を見開く。


「シオどの」


 夕星は戸惑ったように、しかしそれでもシオに会えた嬉しさで頬を僅かに染めて口を開いた。


「仕事のほうはだいぶ落ち着かれたのだろうか?」

「仕事?」


 シオは眉をひそめて呟く。

 それから「ああ」と言った。


「仕事のことなんか、あなたが心配する必要はありません。お気になさらず」


 取りつく島もない素っ気ない返事に、夕星は体を微かに強張らせて口をつぐんだ。

 何度か躊躇ったのち、ひどく思いきったように、夕星は口を開く。


「シオどの……どうかされたのだろうか? 何か……とても、苛立っているように見える」

「苛立つ?」


 シオは鋭い声音で言葉を繰り返した。

 夕星に向けられた瞳は、暗い感情が揺れていた。

 シオは瞳に映るものを夕星に見せまいとするかのように、顔を背けて、ひどく皮肉な口調で言った。


「そりゃあ、留守の間に、夫が別の誰かと乳繰りあっていた、なんて知ったら苛立ちもしますよ」


 シオの口から言葉が放たれた瞬間。

 夕星は衝撃で大きく目を見開いた。

 繊細な美貌からは血の気が引き、紙のように真っ白になっていく。

 その夕星の表情を見て、シオも表情を凍りつかせた。まるで飲まず食わずで砂漠を彷徨っていた人間が、ようやく手に入れた僅かな水さえ取り落としてしまったかのような、そんな顔だった。


「本当に……そうなのですか?」


 シオの声はひどく頼りなげに震えていた。すがりつくような響きさえあった。

 そんなシオの声を聞くのは、初めてだった。

 答えることが出来ずに顔を下に向けた夫の姿を、シオは呆然として眺めた。 


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