第18話 夕星・9 ~夕星の願い~

1.


 夕星がククルシュ公爵家の屋敷に連れてこられたのは、十一の時だった。


 元々母親に仕えていた使用人の屋敷で面倒を見てもらっていたが、その男が病で倒れて死んだ。

 使用人の縁者は、特に義理もない夕星の面倒を見る気も余裕もなく、途方に暮れていたところに手を差しのべてきたのが、シオの父親であるククルシュ公爵だ。




2.


 ククルシュ公は夕星を館に連れ帰ると、表からは隠れるように建てられた小さな離れに夕星を住まわせた。

 「小さな」と言っても、公爵家の城館と比べれば、ということで、夕星がそれまで住んでいた使用人の家とは比べ物にならないくらい広く、贅沢な作りをしていた。


 使用人の男と同じようにククルシュ公も、夕星を貴い身分の公子として丁重に扱った。

 しかしその恭しさの中には、「自分たち二人の真実の関係は表面上は出さない」というある種の共犯を匂わせ、そこに夕星を囲いこむような薄暗さがあった。自分が示す態度は演技であり、そのことは夕星も承知しているはずだ、そう言いたげに感じられた。




3.


 屋敷に引き取られてしばらく経ったころ、ククルシュ公は何気ない様子を装い、話を切り出した。


「私にはちょうど殿下と同い年の娘が一人おりましてな。親の贔屓めかもしれませぬが、なかなか美しく気立ても良い娘で」


 口調の底意のなさを裏切るように、ククルシュ公の青い瞳には抜け目のない、探るような光が瞬いていた。


「もう少し年を重ねたら、ぜひ殿下のお側に上がらせたいと思っておるのですが」


 言われた瞬間、夕星は頬に朱を散らして俯いた。

 きっと、あの少女だ。

 夕星は、欄干を乗り越え、縄梯子を使って館から抜け出した娘の姿を思い出す。


「少し元気が良すぎて騒々しいところもありますが、殿下の横に並ぶにふさわしい淑女として教育するつもりです。お側に上がった時には、きっとお気に召していただけましょう」


 ククルシュ公は、夕星が何も言わないことに焦れたのか、躍起になって言葉を重ねる。


「殿下の笛の音ほどではございませぬが、いま宮廷で流行りの楽器、東弦もなかなかの腕前ですよ。お側に上がった際には、合奏なども楽しめるでしょうな」


 夕星は、風にのって隣りの棟から流れてくる滅茶苦茶な音色を思い出し、我知らず笑みをこぼした。


 あれから夕星は、暇さえあれば庭を見渡せる長椅子に座り、隣りの棟の回廊に少女が姿を現すのを待つようになった。

 昼間、たまに調子の外れた東弦とうげんの音が、風にのって少女の住む館の方角から聞こえてくる。

 いつも同じような時間に流れてくるので、きっと少女の本意ではない、決められた稽古なのだろう。


 そういう時、夕星は自分も愛用の横笛を取り出して奏でた。

 下手くそな弦の音に自分の音を重ねると、あの獣のようにすばしこい動きをする少女に寄り添っているような、欄干に座って足をブラブラさせている少女の隣りにいるような気持ちになれた。

 そう思うと自分の体の中に、かつてないほど温かな活力が生まれるのを感じる。


 その活力に手を引かれるようにして、夕星は言葉を絞り出した。


「姫君は……どう思っているのだろう? そんなに活発なかたなら、私のような者はお気に召さないのでは……ないか?」

「そんなことはございません」


 ククルシュ公は、娘の気持ちなど問題ですらないと言いたげに、軽く手を振る。


「剣は使えるのか、馬や船には乗れるのかとどうでもいいことばかり口にしておりますが……なに、まだほんの子供ですからな。一人娘ということで、私もいささか気ままにさせすぎました。これからは貴族の令嬢として、殿下のお気に召すようしっかり教育を施すつもりです。ゆくゆくはお側に控え、常に殿下のお気持ちをお慰めするような、そんな存在になりましょうぞ」


 公爵の後半の言葉は、耳に入ってこなかった。

 少女が目の前に立ち、「何てひ弱そうな奴だろう」と言いたげな胡乱そうな眼差しで自分を観察している姿が、目の前にはっきりと見えた。

 少女はひとしきり夕星を観察すると、興味をなくしたように別の場所へ向かって走り去っていく。

 縄梯子を使って庭に降りたった、あの時のように。



 その日の午後、夕星は思い切って、日の高いうちに庭へ出てみた。


 今のうちに少しずつ慣れさせれば、体が日光に慣れるかもしれない。

 少し慣れて外に出ていられるようになったら、日の光の下で体を動かしてみよう。

 体力がついたら、屋敷の護衛か従者に頼んで剣術を教えてもらおう。


 あの少女がやって来る前に、男らしく頑丈で強い人間になっていなければ。どこにでも一緒に行けて、いざという時は彼女を守れる、彼女が「これなら夫として悪くない」と思ってくれるようになっていなくてはならない。

 そう考え、庭を一刻ほど歩き回った。立ちくらみも目眩もせず、血の気が引くようなかんじも、急に胸の痛みが走ることもない。

 大丈夫そうだと思えたので、走り回ったりもした。


 日が傾きかけたころには、これならば遠からず剣術を学ぶことも出来るようになるのではないか、と思えた。

 少女の前で武術を披露し、目を丸くしている少女の手を取って「これからは一生、貴女を守る」と伝えている自分の姿を想像して、夕星は顔を赤らめた。

 その想像は、夕星の胸の中に小さな灯りをともした。


 幸福な気持ちのまま、夕星は部屋に戻り、その晩熱を出した。




4.


 夜中。

 寝台の中でふと目を覚ますと、枕元にあの少女がいた。


 少女は夕星が目を覚ますと、ハッとしたように蒼い瞳を見開いた。

 そこには夕星の様子をずっと探るような心配げな光があったが、次の瞬間には、自分の感情に腹を立てたかのように、殊更無愛想な顔つきになった。


 シオどの……。


と、夕星は夢見心地に呟いた。

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