第9話 夕星・7 ~ククルシュの狼~
1.
夕星はハッとして、自分から視線を背けた妻の横顔を見つめる。
「仕方ないですよ。あなたは意思のないお人形さんなんですから。来たものは受け入れることしか出来ない。あなたが悪いわけではないことは、わかっています」
シオの声は、特段怒りも嫌悪もなく、やや素っ気ないだけのものだった。
あるいはだからこそ、かもしれないが、その言葉は鋭い刃のように夕星の心を切り裂き、血を溢れさせた。
顔を紙のように白くしている夕星の様子に気付かないように、シオは暗い空中に向かって言葉を続ける。
「でも……イヴゲニ、あいつは許さない。ふざけたことをしやがって」
ギリッと奥歯を噛み締める音が、夜の中に響く。
シオの蒼い瞳は、残忍な笑いで底光りしている。
「私の夫に手を出す、とはね。外聞を恐れて大したことは出来やしないとタカをくくっているんだろうけれど、それが浅知恵だっていうことを思い知らせてやる」
「シオどの……」
立ち上がり踵を返そうとする妻に、夕星は白い腕を伸ばす。
シオはその気配に気付いたように、振り返り、自分のほうへ向けられた夕星の紫色の瞳を眺めた。
やがてその顔に、ゆっくりと冷たく皮肉っぽい笑いが浮かんだ。
「心配ですか? イヴゲニのことが」
夕星の表情が、衝撃でひび割れる。
血の気の引いた顔をしている夫に向かって、シオは不自然に感情を欠いた平板な声で言った。
「あなたにとっては馴染んだ男、ですもんねえ。情があるのでしょうね」
唇をわななかせる夕星の前で、シオはわざとらしく首を振った。
「でも、あなたから頼まれても許すつもりはありませんよ。あいつはやりすぎた。ククルシュの狼を舐めるとどういう目に遭うか、世間に知らしめるいい機会ですしね」
闇の中で、シオは瞳をぎらつかせる。
夕星は今の状況も忘れて、その姿に目を奪われた。
黒い闇色の毛並みも、人の肉をたやすく噛み砕く鋭い牙も、獰猛な光を宿す蒼い瞳も、一度も恐ろしいと思ったことはない。
いつも美しい、ずっと側で見ていたいと思っていた。
部屋から出て行くシオの背中に、行かないで欲しい、話を聞いて欲しいとすがりつきたかった。
だが、引き留めたところで、言うべきことは何もなかった。
自分があの男にいいようにされ、なぶられ、弄ばれ、そうしてそのことに苦痛以外のものも感じていたことは事実なのだから。
(仕方ないですよ)
(あなたは意思のないお人形さんなんですから)
(来たものは受け入れることしか出来ないのですから)
シオの言葉が胸の中に、何重にも木霊した。
そうしてそのたびに、強い痛みと共に胸から血が噴き出した。
2.
その胸の強い痛みによって、夕星は夢の中から引きずり出された。
目を覚ました瞬間は、自分がどこにいるのか混乱した。
ようやく頭が現実に馴染んでくると、その豪奢で居心地のいい寝台が、イヴゲニの館から黒い狼によって連れて来られた館の一室だ、と思い出す。
だがその部屋は。
夢の中で、シオの夫となった自分が過ごしている部屋とよく似ていた。
内装や調度に細かい違いはあるが部屋は同じだ、とその時、ようやく気付いた。
ふと。
夢の中と同じように、胸に強い痛みを感じて、夕星は視線を上げた。
自分の上に黒い影が覆いかぶさっていることに気付き、夕星は闇の中で瞳を見開く。
黒い毛並みに鋭い牙、巨大な体躯と蒼い瞳を持つ、自分をイヴゲニの館からこの館へ連れて来た、あの狼だ。
夕星の肩を前脚でしっかりと抑えたまま、獣特有の荒い息遣いを吐き、顔を覗き込む。
長く熱い舌が夕星の頬を撫ぜ、鋭い犬歯が傷をつけない程度に喉を柔らかく噛む。
先ほど背中に乗った時と同じように、強い血の匂いがした。
狼は夕星の体を覆うかけ布を引きはがすと、口を器用に使って、夜着をはいでいく。
夜の帳に包まれた寝台の上で、その姿は黒い狼に見えたり、引き締まった体を持つ若い娘に見えたりした。
娘は微笑みながら、夜着の中に手を滑らせて、夕星の肌を愛でるように撫でた。
「殺してきましたよ、夕星さま。あなたの馴染みの男を」
娘は半ば揶揄するように、半ば夕星の表情を探るようにそう言った。
娘の手の動きに合わせて、夕星は息を乱し、微かな声を上げた。
「少しは悲しいですか? あの男が死んで」
徐々に上気し動きが速くなる夕星の姿を、シオは見下ろす。その表情は、ひどく感情が読み取りにくかった。
「夕星さま、あの男はどんなことをあなたにしたんですか? 教えて下さいよ、同じことをして差し上げます。あの男は殺してしまいましたから、お詫びに私があなたを喜ばさないと」
「シオ……どの」
今や全身をしっとりと濡らし、寝台の上で乱れながら、夕星は切れ切れとした声で囁く。
「あなたを……待っていた。あなたが迎えに……来て、くれるのを。イヴゲニの下にいた時も……その前から、ずっと」
少し黙ったあと、シオは口の中で呟いた。
「……嘘ばかり」
その言葉は、夕星に対してというよりは何か他のものに言っているような、切実な響きがあった。
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