第三章 シオ ~天女との出会い~
第10話 シオ・3 ~戻る場所~
1.
朝になり、シオが目を覚ましたとき、夕星はこのひと月のあいだと変わらない様子で、目を閉ざしたまま、寝台の上に静かに横になっていた。
その姿を見た瞬間、安堵と落胆という相反する感情が同時に襲ってきた。
眠気覚ましに両の掌で顔をこする。
意識がはっきりし出すと、唐突に昨夜見た夢が頭の中に浮かんできて、危うくその場で叫び出しそうになった。
(まったく……なんちゅう夢を……)
シオは、これ以上はないというほど紅くなった顔に掌を当てる。
夢の中で、シオは黒い巨大な狼になって寝ている夕星の上にのしかかっていた。
夕星のまとっている夜着を引きはがし、その白く滑らかな裸身を、狼の舌と牙で、人間の口と指で思う存分味わった。
愛撫によって惑乱し、欲情に肌を濡らし、快楽に支配された表情で喘ぐ夕星は、今まで見た何よりも美しく、その美しさを汚したいという欲望が耐え難いほど高まっていった。
頭の片隅では普段の自分が、何とか欲望に乗っ取られた自分を引き留めようとするのだが、その力はまったく無力だった。
夕星のすべてを自分の物にしたい、これまでの男たちが残した跡など、すべて打ち消し、自分という刻印を夕星の体に押し当てたい。
頭も心もその思いでいっぱいで、とにかくその感情を発露しなければ、自分自身が爆発して四散しそうだった。
だから、最後には……。
猛々しい狼の姿となり、十分に愛でることで、人を受け入れるための熟れた体になった夕星を背後から……。
(うわわわぁぁっー!!)
自分の部屋だったら、頭を抱えて絶叫し、のたうちまわっていただろう。
それほど生々しい夢だった。
夕星の肌に触れた感触も、乱れる夕星を見て湧いた欲情も、夕星の中に入った時のすさまじい快感も、中で体を動かすたびに感じた自分という存在が蕩けそうな心地良さも、すべてがくっきりと体に刻み込まれている。
この時代の貴族の例として、シオもそれなりに恋愛という遊戯を楽しんでいた。
日々の財産の運営や領地の管理、商取引などのほうがよほど面白いので、それほど深くのめり込んだことはないが、ストレス解消と活力の補充の方法として非常に有効だ、とは思っていた。
子供が出来たら出来たで跡継ぎが出来ていい。
正式に結婚するのが難しい身分の者が相手の場合は、子供の父親ということで、それなりの身分を与えて召しかかえればいいだろう、くらいの気楽な考えだった。
しかし昨夜、見た夢は、シオが今まで自由気儘にあちらこちらに渡り歩き経験してきた「恋愛」とは、ほど遠いものだった。
あの夢の中で味わったものが、他人を求める欲望であり、その思いに基づいた性交であると言うならば、今まで経験してきたことは一体何だったのだろうとすら思う。
それほど夕星を求め、その心身の奥深くまで自分という存在で貫きたい、そのまま自分という存在をこの人の体内に刻み込んだままにしておきたい、という気持ちは強烈だった。
夕星の枕辺で一晩過ごしたから、あんな夢を見たのだろうか。
シオは彫刻のように美しい夕星の顔を見つめ、だが耐えきれなくなったかのように顔を伏せる。
夢の中で自分は、夕星を冷たく意地悪く責めていた。
男にさらわれ、力ずくで囚われていたことが、まるで夕星自身の罪であるかのように。
夕星が戸惑い、哀願するような眼差しを自分に向けてくることを楽しんでいた。
夕星は何ひとつ悪くない。
むしろ、罪を償わなくてはならないのは、このような運命を辿ることを防ぐことが出来なかった、守ることができなかった自分なのだ。
そう考えているはずなのに、心の奥底では、あんな悪意に満ちた考えを、醜い欲望を隠し持っているのだろうか。
それでは夕星を欲望の捌け口にしていた、イヴゲニのような男と同じではないか。
シオは、ギリッと唇を噛む。
口の中に僅かに血の味が広がった。
少し前に、これと同じ、大量の血の臭いを嗅いだような気がした。
シオはそのことを思い出して、微かに笑った。
イヴゲニが自分の脅しを鼻であしらってきたのは、予測のうちだった。
イヴゲニのように自分の力で全てのものを手にいれてきたという自負がある人間には、野蛮であるがゆえに、駆け引きや交渉は無意味だ。
ああいう男は、より強大な力で叩き潰すしかない。
シオは、イヴゲニのこれまでの領内の悪行を証拠を取り揃えて中央に訴え、一夜にして罪人となりすべてを失ったイヴゲニの裁きは領民たちに任せた。
イヴゲニの死体は、今も領内の広場に吊るされ、野犬や猛禽に肉をついばまれ、見るも無惨な状態で風に揺れているという。
お前は運がいい。
シオは風に揺れるイヴゲニの体を想像し、冷ややかな笑いを浮かべた。
本来であれば、夕星のことを汚した汚物のような肉体など、生きたまま切り刻んで
シオは首を振り、イヴゲニのことも自分の欲望のことも頭から追い払う。
「シオさま」
その時、部屋の入り口から、聞き慣れた侍女の声がした。
シオが御帳台から外へ出ると、気に入りの侍女が廊下で拝礼していた。
「今日はアシラス大公殿下とのお約束がございますが」
言われて、シオは「あっ」と小さく声を漏らした。
有力者との約束を忘れるなどということは、普段のシオからは信じがたいことだ。
内心ではいつにない自らの失態に頭を抱えたが、表向きは「ちゃんと覚えていた」という落ち着きを払った何食わぬ顔で指示を出す。
「そうだったね。すぐに支度をする。先触れの使者を、殿下のお屋敷に向かわせて」
侍女が指示を実行するために部屋から去るのを見届けると、シオは少し躊躇ったのち、もう一度御帳台の中に入った。
寝台の横に座り、先ほどとまったく変化がない、夕星の顔をジッと見つめる。
「夕星さま……」
シオは何かを畏れるように、空気に溶けてしまいそうな小さな声で呟いた。
「すみません、少しだけ……お側を離れます」
また戻りますから。
シオは、眠り続ける夕星の顔を見つめながら、声にならない声で囁きかける。
私が戻る場所は、あなたのお側しかないのです……。
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