第11話 シオ・4 ~皇弟アシラス~


 それから一刻ほど後、シオは大公アシラスの贅をつくした私室の中にいた。


 室内の調度はもちろん、燭台ひとつ、酒杯のひとつをとっても、趣味が良い逸品のものが使われているアシラスの城に来ると、いつもなぜか落ち着かない気持ちになる。

 宮廷に伺候するときでさえ、物おじせず、自らのペースで振る舞えるシオにとって、こんなことは初めてだ。

 この城に来ると、いつも自分とは相入れないものに取り囲まれ、それらに遠目で観察されているような気持ちになった。


「わざわざ足労をかけて悪かったな、こう


 目の前で優雅な仕草で酒杯を揺らす、長身の男にシオはちらりと目を向ける。それから仕方なく、出来うる限りしとやかで恭しい口調で答えた。


「いえ、殿下。お招きいただき光栄です」

「私があなたの屋敷に行っても良かったのだが」


 アシラスは、男らしく端整な顔に半ば楽しそうな半ば皮肉げな笑いを浮かべる。


「我が姫君の眠る姿を見たかった。最近はご機嫌伺いも出来ていない」

(うへえっ)


 何とか保った礼儀正しい表情の奥で、シオは盛大に顔をしかめる。

 シオにとってはこの城の主人は、この城を飾るもの以上に相入れない存在だった。



 現皇帝の弟である大公アシラスは、皇太弟として立つかもしれない、と噂される人物だ。

 二十代半ばという若さながら、諸侯にも宮廷人にも人気が高く人望がある。

 現在、緊張関係にある東方の騎馬民族・ヴォルガにも顔が効く。

 定住という生活様式を持たないヴォルガのために、支配地域の管理まで行い、東方との貿易権を一手に握っている。


 正直、王族などという実際的なことが何もわからない世間知らずの集団に、これだけの立ち回りが出来る人間がいるのか、と最初にアシラスのことを知った時には舌を巻いた。

 その実質的な権力は皇帝をもしのぐのではないか。

 少なくともシオはそう見ている。


 上は仕えるべき兄皇帝から、下は下働きの者、領地内の領民に至るまで、その接し方は公明正大で、評判も申し分ない。

 陰では「卑しい成り上がり」と言われているシオに対しても、貴族として淑女として、丁重かつ対等な対応をする。

 それは表面上の演技などではなく、生まれつき芯から染み付いている、度量の大きさと風格、気品と寛容さなのだろう。それくらいは、多少とでもその相手と付き合い観察すればすぐにわかる。


 この男は、生まれついての王者なのだ。


 だからシオ自身も、一体、この男のどこが苦手だと思うのか、よくわからない。

 ひとつわかることは、この男が夕星について言及するたびにその内容にいちいち苛立ちを感じる、ということだけだ。


(『我が姫』って……夕星さまは、あなたのものじゃないんだけどな)


 今までの様々な経緯を無視して、そんな子供じみた反感がむらむらと湧いてくる。


(夕星さまは誰のものでもないから。夕星さまは、そういうことを言われるの絶対に嫌だと思うけどな。そういうこと、わかっているのかなあ? この人)


 わかっていない。

 わかっているはずがない。

 こいつは夕星のことなど、何もわかってはいないのだ。

 思考する前に言葉が次々とわいてきて、苛立ちの余り、周りの調度品のうちのひとつかふたつくらい叩き壊したい気持ちになる。

 シオは何とかその衝動に耐えて、平静な表情を作った。


「先日は、医師をご紹介いただきありがとうございました」


 アシラスは中空をしばらく眺めてから、独り言のように呟く。


「しかし、姫君はお目覚めにはならない」


 シオの沈黙を肯定と受け取ってか、アシラスは言葉を続ける。


「原因もわからない」

「それは……」


 シオは躊躇いがちに口を開いた。


「もしかしたら……夕星さまご自身がお目覚めになりたくないのではないか、と」


 アシラスは黒い瞳をシオのほうへ向けた。


「なぜ?」

「な……ぜ?」


 シオは一瞬、言葉に詰まり、小さな声で言った。


「なぜ? でしょう……?」

「わからないのか?」

「はい」

「心当たりもない?」

「……はい」


 シオが曖昧に呟くと、アシラスはふと笑った。


「公は、姫君のことを何も知らないんだな」


 アシラスの口調は単純にそのことを面白がっているようなもので、皮肉も悪意も含まれていなかった。

 だがなぜか、シオの心に強い衝撃を与えた。

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