第16話 シオ・9 ~シオの願い~
1.
それからシオは、夕方になると毎日のように、二階の回廊に出て初めて天女を見た庭を見下ろすようになった。
天女は姿を現す時もあり、時にはシオが来る前から庭にいる時もあり、また夜になるまでずっと見ていても姿を現わさない時もあった。
だがその習慣を繰り返すうちに、いつしか相手も夕暮れの決まった時間に外に出るようになり、ほぼ毎日のようにその姿を見ることが出来るようになった。
(何だか、待ち合わせの約束をしているみたい)
そんなこと考えがふと頭に浮かび、ひそかに顔を赤らめる。
陽の光に弱い、というならこの時間に外に出る習慣を作るのは必然ではないか。
余りに感傷的で都合が良すぎる自分の考えに、シオは苦笑を浮かべた。
(
その人の名前が、遥か東の国で「宵の明星」を意味するものであることを、後で知った。
陽の光が落ち、夜になるまでの短い間しか見えない人。
もし結婚したとしても、この時間しか会えないのではないだろうか。
でももし。
シオは二階の回廊から、欄干越しに夕星の姿を見つめながら考える。
夕星が自分のことを見て話をしてくれて、笑いかけてくれて、ずっとそばにいられるなら、それでもいい。
そんな風に思えた。
2.
それからも、夕星に直接会うことはなかった。
父親はその後、一度もシオに、「会ってみないか」と聞いてくることはなかった。それどころか最初からそんな話などなかったかのように、その後、夕星の話を出すことはなかった。
一度、焦れて、自分から尋ねたことがある。
「夕星?」
父親に怪訝そうに問い返されて、シオは顔を真っ赤にする。
日頃、見せている「貴族にとって結婚は政略の手段のひとつ。夢を持つなど愚かしい」という冷めた態度は表向きのものに過ぎなかった、そう思われるのではないか。
慌てて誤魔化そうとしたシオの前で、父親は薄く笑った。
「なるほど、お前も気に入ったのか」
お前も?
父親の言葉に引っかかりを感じ、シオは顔を上げる。
父親が「夕星」の名前を口にした瞬間、黒い靄のようなものが胸の内に沸き、それは時間が経つにつれ、胸腔いっぱいに広がっていった。
そのあと、二度と父親に夕星のことを尋ねなくなったのは、夕星のことを口にされることを耐え難く感じたからだ。
3.
夕方になると遠目に夕星を見ることが出来る以外、たまに昼間に楽器の練習をしていると庭から笛の音が聞こえてくることがあった。
貴族にとって楽器演奏や舞踊は、社交場での交流のための必須の技術だ。「興味がない」「向いていない」で済ませられるものではない。シオも幼いころから専任の教師をつけられ、習い覚えさせられていた。
だが体を動かす舞踊はともかく、演奏にはどうにも興味が持てなかった。ジッと座っていると、身体中が痒くなってくる心地がする。
庭から聞こえてくる美しい笛の音を聞いていると、その音に導かれて居心地の悪さを忘れ、意外と演奏も楽しいと思えてくる。
そういうことが頻繁にあった。
シオは、欄干の上に腰かけ、下に見える庭をジッと見つめる。
その笛は、夕星が吹いているものだ。
シオの胸には、そういう確信があった。
夕星が奏でる音だから、音を合わせてみたいと思い、苦手な演奏も楽しいもののように思えるのだ。
シオは目を閉じて、夕星と結婚した後のことを想像した。
夕星はきっと、自分が奏でる笛の音に、シオが音を合わせているとは夢にも思っていないだろう。
話したら驚くだろうか。
おかしそうに笑ってくれるだろうか。
だが。
考えた直後に、何となく不安になる。
夕星の笛は、とても見事なものだ。きっと、音楽や芸術に素養があるのだろう。
そんなことにちっとも興味が持てず、何も知らない、いつまでたっても上達しない自分と結婚しなければならないと知ったら、ガッカリするのではないだろうか。自分と同じ趣味や興味を持つ相手が良かった、そう思うのではないだろうか。
だったら。
シオは、いつも黄昏の中で見る、天女のような夕星の姿を思い浮かべて考える。
夕星と結婚する未来は来ないままでいい。
夕星が自分のことを気に入ってくれ、下手な演奏もたまにはいい笑ってくれる、そうして側にいて笛を吹いてくれる、そんな幸せな夢だけを永遠に見ていたい。
そんな風に思ってしまう。
4.
あの時、自分はあんな風に思うべきではなかったのだ。
夕星の姿が見えなくなってから。
父親が、血筋を公に認めさせることを止め、夕星を手放したと聞いたときから。
そのあと、父親が僧院に多額の布施をし、足繁く礼拝に通うようになった、と屋敷の者たちが意味深長に話すのを聞いた時から。
一体、何度、そう思っただろう。
父親に正式に婚約したいと話し、夕星の妻としてふさわしい人間になれるように努力すれば良かった。
結婚することで確たる地位を与えることが、寄る辺ない身の上にいた夕星を守る、唯一の方法だったのだ。
なぜ、あの時にそのことに気付かなかったのだろう。
悔やんでも悔やみきれない。
ミハイル伯の屋敷から連れさらわれた夕星の行方を探す出すことは、ククルシュ公爵家の地位と力を持ってしても困難を極めた。
まさか地方の豪族が、貴族の愛妾を力ずくでかどわかすなど想像すらしなかった。
一年間探して探して探し続けて、ようやく見つけることが出来たのだ。
夕星を屋敷に迎えることが出来たとき、決めていた。
幼かったあの時の自分が犯した過ちは、取り返しがつかない。だが、まだ幾ばくか償うことが出来るはずだ。
何としてでも、これからの夕星の人生は、日の当たる場所で穏やかに生きられるようなものにする。
自分も含め暗い昔の記憶に繋がるようなものはすべて断ち切らせる。皇家の血を引く高貴な公子として生まれ変わらせ、何不自由ない生活を送れるようにする。
そのためならば、どんなことでもするつもりだった。
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