第二章 夕星 ~黒い狼~
第3話 夕星・1 ~心の居場所~
1.
……
呼ばれて夕星は、瞳を開け、ゆっくりと体を起こした。
いつの間にか長椅子の上で、うたた寝をしてしまっていたらしい。
肩から滑り落ちていた羽織を体にかけ直す。
深い紫の瞳で辺りを見回すと、そこは自分に与えられた見慣れた居室だった。
贅をつくされており、華美で豪奢な調度が揃えられた室内の様子は、夕星の繊細で儚げな容姿とどこか噛み合わない、ちぐはぐな様相を呈している。
「夕星さま」
まだ夢の中にいるような、ぼんやりとした夕星に、側に控えていた小姓の少年が、控えめに声をかけた。
十代前半ほどの年頃で、利発そうな眼差しをしている。
「今夜はお館さまがお渡りになる、と、使いが参りました」
小姓の言葉に、夕星はしばらく打ち沈んだ表情をしていた。
だが自らにまとわりつく哀愁の空気を首を振って振り払うと、少年に向かって微笑みかけた。
「ミト、お迎えの準備を」
ミト、と呼ばれた小姓は、頬をうっすら染めて「はい」と返事をし、部屋の奥へ消えた。
夜半やって来る館の主人のために、酒食の準備、部屋のしつらえ、夕星の装い、寝床の支度とやることは山のようにある。
館の主が訪ねてくるときは、夕星付きの小姓の筆頭であるミトが、すべての差配を行うのだ。
忙しく動き始めたミトとは逆に、夕星は長椅子に座ったまま、何をするでもなくぼんやりと窓の外を眺めていた。
しばらくしたら、湯殿の準備が整う。
小姓たちによって体を清められ、館の主が好みそうな装いを着せられる。愛玩されるためだけに存在する人形として。
六年前、十二歳の時、世間から隠れ住むために、聖地とされる僧院に連れてこられた。
僧院の奥深く、人の目につかない暗い場所で、男の欲望を受け入れるための、ありとあらゆる仕込みを受けた。
世の中では徳の高い聖人と尊敬を受けている僧たちが、今よりも幼かった夕星の体を無垢なものから淫靡なものへ変えることを楽しみ、僧院を支援する者たちに謝礼として与えた。
その時に馴染んだ老貴族に見初められ、多額の寄付や支援と引き換えに身請けされた。
三年、寵を受けたあと、老貴族が死んだ。
その貴族に財産の管理と整理を任されていた地方の豪族であり官吏でもある男に、どさくさに紛れてこの屋敷へさらわれるように連れてこられた。
一年前のことだ。
老貴族の芸術品を愛でるような愛撫とは違い、執拗で荒々しい現在の主の求めは、心身を内部から食いつくされるような嫌悪と恐怖を夕星に与えた。
だが、じきに相手の野獣のような欲望を受け入れる術を飲み込み、相手を喜ばせながら自分の心は離れた場所に逃すことも出来るようになった。
夕星は目を閉じて、先程まで見ていた夢を思い出す。
僧院にいた頃から、毎夜、同じ夢を見る。
そこは僧院へ連れて行かれるまで住んでいた、広大な屋敷の中だ。
夢の中では僧院には行かされず、今の歳までずっと屋敷で過ごしている。
その夢の中が、人の手から人の手へ、物のように受け渡される夕星の心の居場所だった。
2.
夢の中でも夕星は、今と同じように、部屋で人が来るのを待っている。
誰かを待つのは、今と同じ。
だが。
諦念に支配されている今とは違い、夢の中では夕星は、待ち人が姿を現すことを心待ちにしていた。
その相手の訪れを待つためだけに、生きている。そんな気持ちにさえなる。
その人は、先触れなどなく、いつも唐突に夕星の下にやって来る。
本殿につながる
まるで野をうろつく獣のような……。
気まぐれで奔放で、そうしてどこか秘密主義的な匂いがするその振る舞いを、側付きの者たちは半ば呆れたように半ば理解しがたいものを畏れるかのようにそう噂した。
夕星は長椅子に座り、横笛を奏でながら月を眺める。部屋と廊下の仕切りをすべて開け放っているため、冴えざえとした月光が眩しいほどだ。
時折、温かい夜風が入り、夕星の白金色の髪やまとっている薄い長衣の裾をさやさやと揺らした。
月に照らされた夜の中、不意に黒い影が夕星の前に現れる。
最初、その影は巨大な獣のように思える。
夕星を背に乗せて駆けることも、腕の下に組み敷き喰らうことも出来るような、人ほどの大きさの闇色の艶やかな毛並みを持った黒い狼だ。
黒い狼は遠慮もなくのそりと部屋の中に入り、気儘に振る舞う。
気まぐれな動きで夕星をなぶるように舌で愛撫することもあれば、毛並みをすりつけるように側に寄り添うこともあった。
かと思えば、側には寄らず、少し離れた窓辺に座り、そこから夕星を観察することもある。
そういうときは夕星が少し目を離した隙に、黒い獣は姿を別の物へ変える。
月明かりの中で、狼の姿は、無駄なものがついていない細くしなやかな若い娘の姿へと変わった。
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