第2話 シオ・2 ~幸せな夢~

1.


 シオが大金を支払った医者の一人が、「生命活動を極端に低下させることで眠り続けているのではないか」とあやふやな口調で意見を述べた。


「つまり」


 長々と続く医者の説明を、シオは遮る。


「生きるための最小限の活動しかしていないから、食べたり排泄したりしないで眠り続けていられる、ということ?」

「はい、私どもが生きている一日が一瞬で過ぎているようなものなのではないか、と推察します。体を動かさないのに、手足や胴が萎えるご様子もない」


 原始の宗教の中に、体を仮死状態に出来る秘術か秘薬があると聞いたことがある、という医者の言葉にはシオは興味を示さなかった。

 言ったのは別のことだった。


「どうすればお目覚めになるの?」

「それは……」


 医者は困ったように首を捻る。

 誤魔化すようにあちらこちらに視線をさ迷わせていたが、シオの強い視線が、自分にピタリと当てられたまままったく動かないことがわかると、曖昧な口調で呟いた。


「私のほうからは何とも……」


 シオの表情に、今まではなかった権力者らしい気短な癇気が不意に表れたのを見て、年配の医者は慌てて言葉を続けた。


「ご縁のかたは、お体には異常はございません。ただ深く眠られているだけでございます。……ご病気ではない」

「異常はない? ひと月のあいだ、一度も目を覚まさないで眠り続けている状態が?」


 皮肉を通り越して厳しい響きを帯びるシオの言葉に、医者は身をすくませる。額をわずかに冷たい汗でぬらしながら、声を振り絞った。


「確かにずっと眠り続けているのは、尋常なご様子ではございません。ただ……逆を言えば、このようにお体に異常がなく眠り続けていらっしゃれるのは、ご縁のかたにとって、これは十分に予測された上での事態ではないかと」


 シオはわずかに青ざめている医者の顔を、ジッと見つめた。

 それから静かな声で呟いた。


「夕星さまご自身が、眠ることを望まれている、ということ?」

「恐らくは」


 なぜ?

 思わず漏れそうになった言葉を体内に押し戻すかのように、シオは唇を強く噛み締めた。

 それは医者に聞いても仕方がない。

 シオの関心が自分から去ったことに、年配の医者はホッとしたようだった。

 退室を許されると、恭しく拝礼し、そそくさと立ち去って行った。


 部屋の中には、シオと寝台に横たわる美しい人影のみが残された。

 淡い色合いの長い睫を見つめ、白磁のように滑らかな頬に視線を辿らせ、軽く合わされている艶のある唇に目を止める。

 どれほど見つめても、夕星からは何の反応も返ってこない。


 夕星さま……。


 相手に呼びかけるわけでもなく、他の誰かに問うわけでもなく、シオはただ自然に自分の考えを心の表面に浮かべた。

 手作りの小さな舟を、月明かりの下で湖面に浮かべるように。


 夕星にかけられた掛け布の上に、ソッと手を置く。

 なぜ、ずっと眠られているのですか?

 月明かりの下の静かで動きのない湖の水面で、シオは一人で、ゆらゆらと小舟を揺らす。


 この世界は、あなたにとってそれほど耐え難いものだったのですか?


 シオは瞳を閉じて考える。


 あなたはいま、どこにいらっしゃるのでしょうか? この世界ではない、あなたが本当にいたい場所におられるのでしょうか?

 幸せな夢を見るように……。




2.


 シオは、ふと目を開けた。


 驚いたことに寝台にもたれるようにして、眠ってしまっていたらしい。

 ほんの一瞬、目を閉じただけだと思ったのに。


 シオは頭を振る。

 収まりの悪い黒い髪が、わさわさと騒がしく動く。


 寝台の上に目を向けた瞬間、シオの目が驚愕で見開かれた。

 きちんと整えられた寝台の上には、誰もいなかった。

 シオが顔を伏せて乱した箇所以外は、人がそこにいた形跡さえなかった。



 空っぽの寝台を呆然と眺めていると、不意に耳に柔らかい笛の音が聞こえてきた。


 遠い昔、どこかで聞いたことがあるような、心の一番奥底の部分が優しく揺らされるような音色だった。

 まるで風のそよぎがそのまま音になったかのような美しい音色は、月の光と夜気を編み込み、静かな空間の中に溢れる。

 自分の無骨な動きがその空間を壊すことを恐れて、シオは恐々と立ち上がり、御帳に手をかけて外を覗く。


 月明かりの中、長椅子に腰掛け、横笛を奏でるほっそりとした姿が目に入った。


 月の光を淡くはじく金糸の豊かな髪が、男にしては華奢すぎ、女にしては直線的すぎる肩や背中に流れ落ちている。

 開け放たれた部屋の入り口からは、時折、温かい夜風が入り、笛の奏者の白金色の髪やまとっている薄い長衣の裾をさやさやと揺らした。



 シオが声もなくその光景を眺めていると、笛の音が止み、その人物がゆっくりと振り返る。

 夜を間近に控えた夕闇のような、深い紫色の瞳。

 その人の瞳をこれほど近くで見たのは、初めてだった。


「夕星……さま?」


 夕星はシオを見つめ、女性めいた繊細な容貌に優しい微笑みを浮かべた。

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