第4話 夕星・2 ~あなたの夫~


 淡い明かりを反射して、光沢を帯びる黒い豊かな髪。

 蒼い瞳は、姿が変わっても、抜け目なく狡猾な光を宿す狼のもののままだ。

 娘の痩せた顔立ちには、女性らしいたおやかさや柔らかさとは無縁な、皮肉でふてぶてしい笑いが浮かんでいる。

 人を冷徹に観察するようなその表情を見ると、誰一人として「若い女性」という彼女の属性には注目しないだろうと思わせる。

 よほど物が見えない人間以外は、彼女を若く大人しやかな淑女としてよりも、もうひとつの姿である黒狼のように、抜け目なく狡猾な野心家として見た。


「夕星さま……」


 狼としての本質を持つ娘は、夕星の姿を遠慮のない眼差しで観察しながら言った。


「まだお休みになっていなかったのですか? 風邪が治ったばかり、と聞きましたよ。……そんな薄着で夜風にあたられて」


 皮肉で飄々とした口調の中に、わずかに夕星に対する気遣いが顔を覗かせる。

 自分の内心に湧いた相手への思いが不快なものであるかのように、娘は唇を曲げた。

 不意にヅガヅカと室内を横切り、床に置かれた羽織を夕星の細い肩に投げるようにかけた。


「もう少し、温かい格好をなさって下さい。まったく……きちんとお世話をするように、ミトに言わないと」


 夕星は肩にかけられた羽織に手を当てる。


「私が体調を崩したから……戻って来てくれたのか」

「夫の体調を気遣うのも、妻の務めですから」


 娘はそう言って肩をすくめる。

 夕星の白い頬に朱色が刺すのを、目ざとく見てとり、心配げな表情になった。


「夕星さま、また熱が出たのではないですか? 駄目ですよ、昼間は体が冷めていても夜になると熱が出ることもあるんですから。……ミトの奴、どこで油売っているんだろ」


 ミトを探しにいこうと立ち上がった娘は、ふと何かに引っ張られているのを感じてそちらへ目を向ける。

 夕星が俯いたまま、服の裾を指先で捉えているのを見て、軽く目を見張った。


「ミトは……いない。朝まで人払いをした」


 夕星は、娘の服の裾を掴む手に僅かに力を込める。


「シオどのが……私のところへ渡られるのは久しぶりだ」


 シオ、と呼ばれた娘は、あちこちに視線を投げた後、口のなかで呟いた。


「すみません、色々忙しくて……」


 夕星はシオの服を握ったまま言った。


「しばらくは……こちらにおられるのだろうか」


 シオは普段の彼女を知る人間が聞けば驚くだろう、柔らかい声音で答える。


「しばらくは、夕星さまのお側におりますよ。留守が長かったぶん、たまには妻として旦那さまにお仕えしないと」


 ふざけた口調の下からわずかに真心を覗かせて、シオは夕星の白い手を取った。

 だがすぐにそっぽを向き、手を離す。

 夕星は、何とはなしに空になった自分の手を眺めた。


 シオは少し離れた箇所から、闇の中に浮かび上がる夕星の儚げな姿を眺めた。

 それからその白く細い頤に手を当て、顔を上向かせる。


「夕星さま、私が留守のあいだ、誰もお側に近寄らせていませんか?」


 夕星はシオの蒼い瞳に捕らえられたかのように、そこから視線を動かせないまま小さな声で答えた。


「私は……あなたの夫だ」

「夕星さまを欲しい、っていう人はたくさんいますよ。数え切れないくらい」


 シオは独り言のように言葉を続ける。


「側の者を一人でも手なずければ、ここに忍び込むくらいわけないですからね。ミトは信用しているけれど……あの子もずっと、側にいるわけじゃないし」


 夕星は顔を伏せようとしたが、シオは許さず、その顔を覗きこんだ。


「妻である私に、一夜でいいからあなたと過ごさせて欲しい、と言ってくる奴もいます。貴族の中じゃ、よくある話ですからね。夫や妻の貸し借りも、洗練された恋の遊びなんですよ」


 夕星の紫色の瞳の中に不安げな光が浮かぶ様子を、シオはジッと見守る。


「色々なものを差し出してきてね。れっきとした貴族の伴侶を貸し出して欲しいと言うんだから、見返りも豪勢ですよ。金なんて……金は、いくら積まれても金でしかない。遊び女を買うのとは訳が違うということは、皆さん、ちゃんと心得ていらっしゃる。地位とかコネとか利権とかそういったものですね、もってくるのは。

 この前は、やんごとなき御方から東方の港の通行許可の審査を任せてもいいと言われました。あの港を使って貿易をする人間の生殺与奪権を、全部握れるんですよ。豪儀ですよね。思わず口笛を吹きそうでしたよ。

 その代わりに、あなたをひと月ほど城にお招きしたい、とのことです。夢なんだそうですよ、あなたを腕に抱くのが。ひと目垣間見た時から恋い焦がれているんですって。ロマンチックじゃないですか?」


 シオは皮肉で意地の悪そうな笑いで唇を曲げる。


「ときめきました? 夕星さま。そんな大きな権利を差し出すくらい、恋い焦がれてくれるなんて、って。ちょっとくらい応えてもいいかな、とか思いました?」


 夕星が答えないので面白くなさそうな顔になり、誰に言うでもなく付け加える。


「どうしましょう? あなたをあちこちに差し出せば、色々なものが手に入るのだけれど」


 シオはそこまで話して、自分の言葉に苛立ったように顔をしかめた。

 伏せられた夕星の顔を見下ろす。


「夕星さま、もう一度伺いますが、ここには誰も来ていないのですね?」

「誰も側には近寄らせていない」


 夕星は、風のそよぎのような小さい声で答えた。


「私が迎えるのは、あなただけだ」


 しばらくの沈黙の後、シオは感情のこもらない声で言った。


「では、ずっと一人寝でお寂しかったのではないですか? 私が来るのは久しぶりだもの。何だか信じられないな、あなたが誰にも抱かれずに長い期間を一人で過ごされたなんて」


 シオは夕星の夜着の衿に手をかけると、それを無造作に開いた。

 透き通るような白い胸を露にした夫の体を、のしかかるようにして押し倒す。


「お元気になられたなら、確かめてみましょうか。本当に私以外、誰もあなたに触れていないか」


 シオは薄闇の中で、口を大きく開けて笑った。その隙間から覗く歯が、狼の牙のように鋭く光る。

 喉笛に噛みつくように、シオは夕星のそらされた喉に口づけをする。

 顎から喉、鎖骨に唇を滑らされながら胸の突起に触れられて、夕星は微かに喘いだ。


「……シオどの……」

「何ですか?」


 休みなく動くシオの手の動きに、夕星は耐えられないように体をよじらせる。

 徐々にしっとりと潤ってきた全身が、うっすらと朱色が広がっていく。

 夕星は途切れ途切れに囁いた。


「……会いたかった」


 シオの手つきの中の荒々しさが強まり、夕星の内部の敏感な部分をなぶり、否応なく高めていく。逃れようがないほど高ぶり極まりそうになった瞬間に、不意に優しさが加わる。

 夕星は声を噛み殺して、その波の揺らぎに身を任せていた。だがやがて耐えきれなくなったように、シオの痩せた体にすがり声を漏らし始めた。

 自分を翻弄する波の中で、わずかにもがくように夕星は言葉を紡いだ。


「ずっと……待っていた。あなたのことを……」


 自分の体に触れるのが若い娘のしなやかな手や柔らかい唇から、獣の剛い毛並み、荒い息を吐く獰猛な牙に代わるのを感じながらも、夕星はその体を抱きしめる。

 黒い狼が、娘の声で囁く。


「夕星さまが、私を待っていて下さる限りは戻ります、あなたの下に。私はあなたの妻ですから。私が戻る場所は、あなたのお側しかないのです」

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