うろう様

大塚

生活

 呪いにも色々な種類があるんです、と東京から来た男は言った。最初から相手を殺すことを目的とする呪い。対象を長期的に苦しめて、最後にはやはり殺してしまう呪い。或いは生かさず殺さず、ただ無限の苦しみだけを与える呪い。対処方法がある呪いもあれば、手の打ちようがないものもある。

「つまり、どういうことなんだ」

 苛立ちを隠そうともせずに夫が口を開く。彼は最初からこうだった。我が家は呪われている。その前提さえ、受け入れようとしなかった。気付いたのは息子だった。まだ3歳の、わたしたちの息子。うちのなかにだれかがいる、こわいよ。その悲鳴にもっと、もっと早く向き合っていれば。こんなことにはならなかったのだろうか。

「つまり、ですか。では申し上げます。あなた方に、このイエに、かけられた呪いを解く術を私は持ち合わせていない」

 小柄な男だった。喪服を思わせる真っ黒なスーツに身を包んだ、端正な顔立ちの男だった。その顔を、夫が容赦なく殴打した。止める暇もなかった。

「やめ、何してるの! やめて!」

「止めるな! こいつ、勝手なこと言いやがって!!」

「……」

 夫もわたしもこの村の出身だ。年も同じで、いわゆる幼馴染みというやつだ。小学校、中学校までは一緒で、高校は別れた。その後大学進学を機にそれぞれ上京し、本当に偶然、同じ学部の同じゼミで再会した。しばらくは友だちのままでいて、ふたりとも無事就活を終えたあたりで交際を始めた。家族にも友だちにも祝福されて結婚し、子どもも生まれた。なにもかもが順風満帆だった。そのはずだった。


 きっかけは例のウイルスだった。まず、わたしが職を失った。正確には勤務先がなくなった。飲食店勤務で、同じ思いをした人は少なくないと思う。それから夫だ。彼はわたしとは違う仕事をしていたけれど、夫は人員整理の対象となった。会社を守るためだと上の人たちは言っていたそうだが、そんな理屈はどうだっていい。小さな子どもを抱えて路頭に迷うわたしたちに、村に戻っておいでと声をかけてくれたのは双方の祖母だった。空いている土地に建てた家があるからそこで暮らしなさいと夫の祖母が言い、子どもがいても働く場所はあるからとわたしの祖母が言った。それでわたしたちは、ほとんど泣きながら生まれ育った村に戻った。

 都会に較べればまったく人のいない、荒野のような村だった。けれどここには生活があった。出戻りのわたしたちを両親も、親戚も、それに村で大人になり村で働く友人や先輩たちも快く受け入れてくれた。夫は海産物の缶詰工場で正社員として働き始めた。わたしは祖母の紹介で農作物の仕分けなんかをする職に就いた。息子はお互いの親に預けたり、祖母にお願いしたり。ああ、わたしたちは、失った生活をここで取り戻していくんだな。そんなふうに思っていたのに。

「うろう様だよ」

 うちのなかになにかいる。息子が毎日泣くものだから、わたしは困ってしまって祖母に相談をした。そうしたら、祖母は、とても真剣な表情でそう言った。

「うろう様? なにそれ……」

「この村には何年も出なかったはずなのに、どうして」

 話が見えていないのはわたしと夫だけだった。わたしの祖母から夫の祖母へ、そこから夫の両親とわたしの両親へ。話はどんどん伝わっていき、最終的に「拝み屋」を呼ぶことになった。それがこの、目の前にいる、わたしの夫に殴られても尚涼しい顔をしている東京から来た男だった。

 殴られたことでずれた黒いマスクを流れるような手付きで直しながら、男は言った。

「うろう様。厄介な呪いです」

「だからそれ、なんなんですか?」

「ご存知ない? ああそうか、しばらく村を離れていらしたんですっけ」

 自分だって東京から来たくせに、きちんと説明もしてくれない。息子はわたしの膝の上でずっと泣いている。いる、いるもん、いるんだもん、と泣いている。

「もしかしたら東京から連れてきてしまったのかもしれませんが、いや困った……」

 祖母によれば、この男は凄腕の「拝み屋」だということだった。でも何もしてくれない。打つ手がないなんて言う。うろう様ってなに。わたしたちはこの先どうなっちゃうの。


 ここに住めなくなったら、もう本当に生きていく場所がなくなってしまうのに。


 その時だった。わたしたちが向かい合っているリビングからも良く見える田舎道を、一台の軽トラックが走ってくるのが見えた。薄汚れたブルーの軽トラック。拝み屋の男が訝しげに首を傾げる。軽トラックは、呪われた我が家の前で停まった。

 運転席から降りてきたのは──

「クニちゃん!?」

国実くにざね!」

 国実くにざねサトル。わたしと夫の、同級生だった男性だ。

 幼馴染みと称するには彼との思い出はあまりに少ない。同じ年に生まれた子どもの人数が少なすぎる村で小学校から高校までは一緒だったけれど、彼は高校卒業と同時に家業のスイカ農家を継いだので、上京して以降は連絡を取り合ったことすらない。わたしたちの結婚式にも呼んでいないし、クニちゃんはまだ独身なのではなかろうか。

 灰色のツナギに身を包んだクニちゃんがチャイムを押す前に、わたしが玄関に走って扉を開けた。

「こんにちは。久しぶり」

「クニちゃん……どうして……」

「国実、おまえ、何しに来たんだよ」

 困惑するわたしの肩越しに夫が唸り声を上げる。やめてよ、と振り返った視線の先、夫のすぐ後ろに東京から来た男が立っていた。先ほどまでの涼しい顔が嘘のように、呆気に取られた表情をして。

「国実先生!?」

「あれ。きみが来ていたの」

「はあ、まあ。呼ばれまして。でも俺では、力及ばず」

 先生? 今クニちゃんのこと先生って言った? どういうことなの?

 夫も「なにがなんだか分からない」みたいな顔をしているし、クニちゃんは小脇に竹を真っ二つに割ったもの(青竹踏みに使う竹のもっと巨大なバージョンを想像してほしい、中にかぐや姫が入っているような)を抱えているし、わたしにできるのは突然の訪問者を家に上げることだけだった。

「ミナミさん、サチオくん、久しぶり。10年ぶりぐらいかな?」

 クニちゃんはリビングに青竹を置きながら、淡々とした口調で言った。身長も体重も平均中の平均。顔は薄くて、子どもの頃から牛乳瓶の底みたいな眼鏡をかけてて、木登りも虫取りもしなくて、足も遅くて、だからもちろん全然モテなくって、同じ年に生まれたという共通点がなければ一生関わり合うこともなかっただろうなってタイプ、それがクニちゃん。国実サトルだ。

「国実、ほんとになにしに来たんだよ」

 夫、サチオが威嚇するような口調で言う。ちょっと、と東京から来た男が強めにサチオを制した。

「なんて言い方するんです」

「は?」

「国実先生はプロですよ。この件に関しては、私などより、ずっと」

「はあ?」

 いやプロって。急になにを言い出すのか。クニちゃんはただのスイカ農家だ。村に戻ってきて噂で聞いただけだけど、数年前まではお父さんとふたりでスイカを作っていて、そのお父さんがもう年だからって引退した後は従業員のひとりも雇わずにだだっ広い農場でひとり黙々とスイカを作り続けているのだという。人と関わるのが嫌いなのね、と職場の休憩時間に先輩の女性が言っていた。そうじゃなきゃ、あんな広い場所でひとりで仕事続けるなんてできるわけない。

「……ちょっと、噂を聞いて」

 クニちゃんは相変わらず分厚い眼鏡をかけていた。開いているのか閉じているのかも良く分からない糸目がぐるりとリビングを見回す。

「うろう様か」

「だからそれはなんなんだよ!」

 怒鳴るサチオの首根っこを、東京の男がむんずと掴んだ。そして、

「あなたは邪魔だ。出ててください」

「は?」

「そうだね。息子さんと一緒にちょっと外に出ててもらった方がいいかも」

「なんだと!?」

 息子──そうだ、息子は。あんなにも泣きっぱなしだった息子が、クニちゃんが登場した途端ぽかんとした顔で泣き止んでいた。クニちゃんは少し笑って、息子の頭をよしよしと撫でた。

「サチオくん、息子さんと外へ」

「国実、俺に指示すんじゃねえ!」

「はいはいはい出ーてーてーください、マジで邪魔だから!」

 東京の男に引き摺られるようにサチオと息子がリビングから退場する。取り残されたわたしの前で、クニちゃんは大きく深呼吸をした。

「始めますか?」

 戻ってきた東京の男が尋ね、クニちゃんはこくりと頷く。そうして彼は灰色のツナギの首元に手を掛け、勢い良くファスナーを引き下ろした。臍のあたりまで、それはもう勢い良く。ツナギの上部分を脱ぎ、下に着ていたやはり灰色のTシャツを脱ぎ捨てる。東京の男がそれを拾って畳む。次いでツナギの下部分を脱いで放り投げる。東京の男がそれを拾って畳む。更に履いていた宇宙柄のレギンスを脱ぎ、灰色のボクサーパンツ一枚の姿になったクニちゃんは、まさかとは思ったけどその最後の砦をも無造作に放り投げた。目の前に、生まれたままの姿に眼鏡をかけたクニちゃんが仁王立ちになっていた。

 子どもの頃と何も変わらない印象の彼の肉体を、わたしは茫然と眺める。青っ白い肌、骨と皮だけみたいな腕と脚、体毛は薄く、体全体の凸凹がとにかく少ない。

 クニちゃんの、学校の先生によく「もっとハキハキ喋れ」と叱られていた聞き取り難い声が、そう宣言し、

 すうっと息を吸う音が聞こえ、


「びっくりするほどユートピア!!」


 痩せぎすの肉体が大きく仰け反る。薄い体を鞭のようにしならせて、クニちゃんが絶叫した。叫びと同じタイミングで、そこだけアンバランスに大きな両手が自身の薄い尻を激しく打擲した。


「びっくりするほどユートピア!!」


 眼鏡をかけていても分かる、クニちゃんが白目を剥きながら咆哮する。叫び、尻を叩き、そこに更に新しいアクションが加わる。目の前に置いた青竹を踏み始めたのだ。


「びっくりするほどユートピア!!」

「びっくりするほどユートピア!!」


 東京の男はリビングの隅に正座をし、クニちゃんに向かって両手を合わせている。もしかしてわたしも同じようにクニちゃんを拝んだ方がいいの? どうするのが正解なの?

 混乱しきってあたりを見回していて、不意に気付く。家が震えている。地震ではない。地面はまったく揺れていない。もしかしてこれは家鳴りというやつだろうか。


「びっくりするほどユートピア!!」

「びっくりするほどユートピア!!」


 クニちゃんはこんな大声を出す子だっただろうか。あんなに激しく動いているのになぜ眼鏡が落ちないのだろうか。叫びと尻を叩く音が絶妙に溶け合って、なんだかクラクラしてきた。

 その時だった。リビングの四方から灰色の影が滲み出てくるのに気付いたのは。

 ハッと息を呑み、クニちゃん……は「びっくりするほどユートピア!!」から帰ってこないので、東京の男に顔を向ける。合掌しクニちゃんを拝んでいた彼が私の視線に気付き、それから灰色の影を睨んで大きく首を横に振った。無視しろということか。


「びっくりするほどユートピア!!」

「びっくりするほどユートピア!!」


 クニちゃんはほとんど飛び跳ねるようにして青竹を踏み、叫び、尻を叩き続けていた。その青白い臀部が真っ赤に染まる頃──家鳴りは止み、灰色の影は消えていた。

「……終わりました」

 東京の男が言い、青竹の前に膝を付いて肩で息をするクニちゃんに下着を差し出した。クニちゃんはよろよろと立ち上がり、パンツを履き、レギンスを履き、ツナギを履き、灰色のTシャツを着、ツナギの上に袖を通してゆっくりとファスナーを引き上げた。映像を逆回しにするみたいに、完璧に。

「うろう様はいなくなったから、もう大丈夫。安心してここで暮らして」

「クニちゃん……」

 中指と人差し指でクッと眼鏡を押し上げながら、クニちゃんはそう言って微笑んだ。額にうっすらと汗が浮かんでいる。いや、だから、うろう様ってなんなの。わたしたちは何に呪われていたの。クニちゃんのさっきの奇行は、なんなの。

 訊きたいことは山ほどあったけど、クニちゃんは現れた時と同じように青竹を小脇に抱え、軽トラックに乗って去って行った。今はスイカのシーズンではないので、冬野菜を育てているのだという。今年のスイカが実ったらお裾分けするね、と言うクニちゃんのスイカが贈答用として東京ではとんでもない価格になっていることをわたしは知っていた。クニちゃんは売れっ子スイカ農家なのだ。

「では、俺もこれで」

 東京の男が立ち上がるのと同時に、息子を抱えた夫がリビングに飛び込んできた。聞けばクルマを出して近所のイオンに行っていたのだという。

「国実は?」

「先生ならもうお帰りになりましたよ」

「なんだよ……ミナミ、変なことされなかったか?」

 変なことはされてない。クニちゃんがソロで変なことをしていただけで。

「うろう様っていうのは……」

「あー、もう口にも出さない方がいいですね。先生がすべて終わらせましたので」

 腑に落ちない顔の夫の手を取り、わたしは大きく頷いた。そう、すべては終わった話。クニちゃんが終わらせてくれた。

 夫の腕から飛び降りた息子が、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねながら言った。

「おうちがきれいになった!」


 東京の男を特急電車が出る駅までクルマで送る途中、彼はひとつだけ教えてくれた。

、が訛ったものですね」

「え……?」

「うろう様の正体ですよ。いや、正体が分からないからこそのうろう様と言うべきか」

 観光客の少ない駅の改札前で、胡乱なものは俺には祓えません、と彼は言った。

「でも、国実先生は違う。彼は胡乱なもの専門です」

「でも、クニちゃんはスイカ農家……ですよね?」

「ええ。彼があの祓いをすることを知る人間は多くありません。ですから」

 ミナミさんも、ね、と東京の男はくちびるの前に人差し指を立て、改札の中へと消えて行った。何もかもが分からないままだったが、わたしたちはこの村で生活を続けていける。夫は缶詰工場、私は農作物の仕分け、クニちゃんはスイカ農家。それでいいんだと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

うろう様 大塚 @bnnnnnz

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ