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その内容の手紙を一晩の夢の中で何度も、何度も投函した。だというのに現実では、自分の意思に背くように体は同じ行動を取る事ができない。彼女にとって次の人間は近く現れるのだろうか。間に合わない可能性はないのだろうか。そればかりを考えてしまい、僕の頭からは彼女の悲しむだろう姿がどうあっても消えてはくれない。
手紙をくしゃくしゃに丸め部屋の片隅に置かれたゴミ箱へと放り投げる。次第にそれらは壁へよりかかるようにして積み重なっていき、ついには山となっていった。
結局僕は『お受けします』とそれだけを綴る事しかできずに返事を待った。『そういって下さると思っていました』とだけ書かれた手紙が来たのはそれから一週間後の事だ。心なしかその字体は崩れているように思えた。
『学校はどんなところですか。学生食堂のご飯や授業の内容に興味があります』
『学校は楽しいですよ』と書き出したところで、手紙を真っ二つに引き裂く。死を見据える彼女に対して外面を取り繕い嘘をつくのは意味のない事だろう。どんなに生き恥を晒すのだとしても、ありのままの姿で彼女に向き合おう。僕は自分がこれ以上落ちていくのは耐えられそうにない。
『経済学を専攻しています。学習度合いはまあまあだと自分では思います。食堂のご飯は安価な上食べられなくもなく重宝します。僕はいつも一人なので何もかもが楽しくないです。なので、はやく一日が終わってしまえと常に念じながら過ごしています』
『そうなのですね。ですけれど、
『両親とは折り合いが悪く、ほとんど飛び出すような形で今は寮に入っています。あなたとは違って一人で生活をしています。だから同じではないと思います』
『あなたの事情も知らずに物を言ってしまい申し訳ありませんでした。けれど、烏丸さん。親御さんはきっと心配しているはずですよ。まったくの赤の他人ならともかく、血の繋がった親と子なのですから。抵抗はある事とは思いますけれど一度きちんとお話しをしてみてはいかがでしょう。それが難しいのならこうして、文章で近況から伝えるのもよいのではないでしょうか』
『咲良さんは、僕にそれが出来ると思いますか。僕自身は無理なのではないかと半ば諦めています』
『わたしは烏丸さんならきっと上手く行くと信じています。あなたは見ず知らずの病人にすらも優しくできる人なのですから』
彼女との文通はいつしか僕の日課となっていた。僕は寝ても覚めても彼女の喜ぶ姿ばかりを想像している。空虚な日々はついに終わりを告げたのだ。
『今日は雨が降っています。いつもの憂鬱が輪をかけて膨れ上がり、日曜だというのに結局部屋に篭ってしまっています。こんなにも人を落ち込ませてしまう雨というものは何故降るのでしょう』
『烏丸さんは繊細な方なのですね。わたしは、雨の日が好きですよ。あの独特な匂いが部屋の中を循環して、今日はいつもと違う日常が流れているような気がするのです。また、晴れの日の賑やかさもしんと静まり返っていて、わたしは、わくわくというのでしょうか。なんだか心が弾んでしまいます。雨の日はお辛いでしょうけれど、どうかよい日を過されますように』
『そういった考え方があるなんて目から鱗でした。咲良さんの感性が本当に羨ましい。次の雨の日はできるだけ匂いと音に気を向けてみます』
『お互い姿すら分からないですけれど、烏丸さんにはわたしが。わたしには烏丸さんがいる。そういった意味ではまったくの一人ではないのかもしれないと、近頃は思うようになりました。そしていつか』
『僕も同じです。咲良さんが手紙を見てくれているという事実が、何より僕自身を勇気付けてくれているように感じます。いつか、その続きは何ですか。可能であれば教えてもらえませんか』
『途中書きのまま投函してしまい申し訳ありません。続きはいくら烏丸さんとはいえ、さすがに気恥ずかしいですし、こちらはわたしだけの秘密とさせていただきます。ごめんなさい。また、いづれその時が来たらお話ししようかと』
『わかりました。その時を心待ちにしています。ところで、もうすぐ春になりますね。暖かくなれば恐らく、今より体の調子もよくなっていくのではないでしょうか。病は気からとも言います。これからの季節に関して知りたい事などがあれば何でも聞いてください』
それを最後に彼女からの手紙は途絶え、待てど暮らせど返事は来ない。そうしてついに一週間になる。恐らく僕は嫌われてしまうような事をしてしまった。手遅れなのだろう。もう彼女の事を思い浮かべ文章を綴らなくとも、興味のない場所をあちこちを歩き回り彼女に伝えなくとも、一日中寮の郵便受けの前で待っていなくともいいのだ。当初、気が楽になるはずの僕の心は喪失感だけで一杯になった。
住所がわかっている以上、会いに行こうと思えば可能ではある。ただ彼女からの拒絶を何よりも恐れた僕は、以前のような空虚に逃げ込むしかなかった。
あれから一週間が経った三月中旬のある日、一通の手紙が僕宛に届いた。差出人は咲良とある。またやり取りができる。まず書き出しから。始めは何の話がいいだろう。最後まで読んで喜んで貰えるだろうか。手紙越しの彼女を思うと僕は柄にもなく、安物の布団へと飛び込んで気持ちを噛み締めるようにしばらくうずくまった。然る後、破れてしまわないようゆっくりと開封し中身を取り出した。
『今日は。烏丸さん、どうしても貴方にお伝えせねばならない事柄があります。つきましては、この手紙の送付元までお越し頂けないでしょうか。何卒よろしくお願い申し上げます』
天気予報に反して振り出した雨の中を飛び出して、僕は帽子を深く被る。手紙はズボンのポケットの中へ忍ばせる。坂を下った川沿いの道を行く
多少迷いはしたけれど、息を切らせたままの僕はついに『
「あの、うちに何か御用でしょうか?」
赤い傘を差した女性が僕のすぐ背後に立っている。外を出歩く事が出来ているこの人は恐らく咲良さんではないだろう。
「僕は、その。これを受け取り駆けつけた烏丸と言います。こちらに咲良さんはご在宅でしょうか」
すっかりくたくたになってしまった手紙をその女性に見せる。すると驚いたような表情を浮かべた。
「まあ、あなたが烏丸さんなのね。傘も差さずに大変だったでしょう。さ、あがってちょうだい」
そう言って家へと促す彼女はどこか嬉しそうな、どこか憂いを帯びたような眼差しをしているように思えた。
「あの、咲良さんは」
間髪入れずに僕は問う。
「ひとまず話は後からにしましょう。お風呂をすぐに沸かすから。体を温めないと風邪を引いてしまうわ」
彼女に招かれるまま家に上がると、僕は風呂場へ通されすっかり冷え切った体を浴槽に沈める。こんな事をしている場合ではない。ただ、そうであっても暖かい湯に浸かっていると、いつものシャワーとは違い心までもが温まるように感じた。間に合わせでごめんなさいねと用意された着替えに袖を通し、先ほどの女性のいる居間へと急ぐ。
「烏丸さん。そこに掛けてもらえる? さて、どこから話したものかしら」
ソファへ向かい合わせに座る一方で彼女は頬に手を当てて考えている。僕はまず彼女が何者であるかを尋ね、その結果咲良さんの母親である
「誰か来ているの」
そこには痩せこけた体の女の子が立っていた。肩まで伸びた綺麗な黒い髪。歳は恐らく僕と変わらないくらいだろう。節子さんはあら、とだけ言って黙り込んでしまった。
「もしかしてあなたが烏丸さん?」
鋭い視線は僕を刺すようだ。それに加えて棘のある言い方が気になったものの、僕は確信めいたものを感じている。怒っているように見えるのはやはり僕の不備によるものなのだと。実際の彼女の姿こそはわからないままだけれど、きっとそうなのだろうと彼女からの問いに頷く。
「あなたは、咲良さんなんですよね?」
立ち上がり真正面に向かうと彼女は目を細めゆっくりと口元を緩ませた。その反応を見て、雨の中を走っていた時のように僕の心臓は再び速度を上げていく。固唾を飲んで次の言葉を待つこの時間が、永遠のように感じられる。そうしてついに口を開く瞬間がやってきた。
「残念でした」
彼女は再び冷たい表情へと戻っていた。
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