第2話 僕のトモダチ

 ぶる、と身震いをしたのは、寒いのとトイレが近かったからだ。朝のホームルームまであと少し時間がある。僕は立ち上がり、カビ臭いトイレへ向かった。


 乾燥してヒビの入ったトイレスリッパを履いて、腐った水の匂いに包まれて、ガヤガヤする廊下の音を聞く。


「高村くん、好きなの」


 ――え?


 偶然にも聞こえてしまったそれは、僕の幼なじみに好意を伝えるものだった。トイレの小さな窓から、中庭の音が小さく聞こえる。それが、まさしく、告白というやつだった。


「滉平が……」


 窓は高い位置にあるので景色こそ見えないものの、音声だけでもじゅうぶんに情景が浮かんだ。


 もしも、滉平が受け入れたら。毎朝の通学も、駅までの帰り道も、部活の試合の応援も、全部、彼女にもっていかれてしまうのだろうか。


 まるで女子、それも滉平の彼女でいるかのような気持ちになった僕は、思わず滉平の返答を盗み聞きする形になってしまった。


 断って欲しい。


 そんなことを考えたり、でも親友が、という気持ちもあり、胸の当たりがくすぐったくなるのを感じていた。


「滉平くん! 答えて欲しいの」

「待ってよ千絵ちゃん……俺そもそも千絵ちゃんのことよく知らないよ」

「でも……」

「君とは付き合えない。高校生活で誰とも付き合う気はないんだ」


 ――滉平……。


 男子高校生らしい、好みのグラビアアイドルの話をしたり、かわいいクラスメイトのブラジャーが透けていて何色だった、なんて話も、滉平とはしたことがない。


 僕はまず女の子に興味がなかったし、だからといって男の方が好きなわけでもないけれど、恋というものがわからず、高校三年生の今も彼女ができたことはない。それに、滉平といる方がずっと楽だった。


「どうせ尾上でしょ! いっつも一緒にいるけどふたり釣り合ってないよ! 滉平くんイケメンなのに、尾上は地味じゃない!」


 千絵ちゃんと呼ばれた女子が大きな声を上げる。

 フラれた腹いせか、僕への八つ当たりが聞こえてきた。これは気分がいいものではない。


「私といる方が絶対に楽しい」

「そうやって他人を卑下することしかできない人間とはもっと付き合いたくないよ。じゃ」

「待ってよ!」


 僕はそこまで聞いて教室に戻った。


 ――滉平のあれは、庇ってくれたのだろうか。

 換気のため、と開いている窓から吹き込む風が冷たい。まだまだストーブは支給されず、皆カーディガンを羽織っていた。


 少し経つと滉平が戻ってくる。


「葵ー」

「……滉平」

「俺らずっと親友な!」

「え、なに」

「いーや、なんでもねーよ!」


 そう言って滉平は自分の席につく。

 ふふ、と笑みがこぼれたのが見えないように頬杖をついて窓の外を見た。


 ――滉平が、親友でよかった。


 滉平が部活のため、僕は学校の図書室で自習をしてから帰宅することにした。外から聞こえる運動部の声と、屋内に響き渡る吹奏楽部の演奏が日常だった。


 そういえば、もうすぐ進路調査票の提出なのに、なにも考えていなかったな、と思い出す。単身赴任の父は小さい頃から放任だったのに比べ、母はわりと口うるさく言ってきていたが、将来に関しては任せてくれていた。


 ――かといって、やりたい仕事もないし進学はしたくないんだよなぁ……。


 キンコンとチャイムが鳴り、下校時刻を告げる放送がかかる。


 外は薄らと暗くなり始め、秋らしい夕日が心地よかった。帰ろうと立ち上がり、カバンに持ち物を詰める。外を見れば運動部も片付けに入っていた。


 ――校門で滉平を待つか。


『校門で待ってる』


 送信するとすぐにスタンプが返ってきた。かわいいウサギのスタンプだ。


 朝より風が強くなっていて、突き刺すようなそれに耐えながら校門で待っていると、部員たちと歩いてくる滉平が見えた。


「お待たせ」

「ううん、そんな待ってないよ」

「先に帰っててよかったのに」

「図書室で自習ついでだし、一緒がいい」

「葵……」


 滉平は、部員たちにじゃーなー、と手を振ると、行こうか、と歩き出した。


 滉平は今日ヒットを何本打ったとか、次の練習試合が決まったとか、いろいろ話してくれた。いわゆるエースで投手の滉平は、頼れるスターのようだ。


「あ、そうだ。新しいゲーム買ったんだよ。明日やろうぜ、帰りに葵んち行っていい?」

「ゲーム……僕滉平に勝てたことない……何買ったの?」

「プロ野球レジェンド」

「……む」

「はは、かわいー」


 まるで幼い頃に戻ったようで、そのときだけ時間がゆっくりに感じるのは、不思議だ。

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