君のしあわせを願い続ける

桃枝このは(ももえこのは)

第1話 鼻梁に落ちる影

 昨夜まで降っていた雨はあがっていた。歩道から立ちのぼる秋の雨の香りは清々しかった。少し窮屈になった革靴をコンコンと鳴らしながら歩く足は少しだけ早い。足元の水たまりに気をつけながら。


 いなかとはいえ、通勤、通学時には道も混む。

 歩道を駅へ向かって歩くとき、自転車とすれちがうときなどは金木犀の香りが一層増すのが好きだ。



 軽快なメロディーを奏でる扉をくぐり、お昼ご飯と飲み物を買う。ついでにチョコレートが欲しかったが、アルバイトをしていない僕の財布がかわいそうなのでやめておくことにした。


 あとは線路沿いに歩くだけだ。


 こんないなかだ。線路が一本、つまり、路線がひとつなのだ。間違って反対行きに乗ってしまったらアウトだが、初めて利用する時は本当に合っているのかすごくヒヤヒヤしたのを覚えている。


 少しいつもより風が強い。長いとも短いとも言えない髪の右サイドを耳にかける。前髪は風で荒れるので諦めることにした。


 七時二十五分。いつもの時刻に、この寂れた無人駅に着く。

 利用者なんているのかわからないこの駅には五台もの自動販売機があるし、不自然にも昔のものなのか手動の井戸もある。それに、放棄された自転車の山だ。


「ふぅ……」

 ――?

 いつもボロボロの今にも崩れそうな木でできた屋根付きのベンチに座って待つのだが、初めて先客を見かけた。スーツをまとった男性は、ブックカバーのされた文庫本を読んでいて、長いまつ毛が影を落としていた。


 ――顔は見えないけど……綺麗な髪だな。


 と思わず見とれてしまう。サァ、と駅の木々が風に揺れる。

 僕は歩いて温まった体を冷ますために少しネクタイを緩めた。その屋根のあるベンチから離れて電車を待つことにした。


 アナウンス音を鳴らしながら電車が到着する。結局、男性は本から目を離すことはなく、電車がしっかり停まってから立ち上がった。


「おっと、……すみま、……え」


 男性はそもそも僕の存在に気づいていなかったようで、視界に突然現れた僕に驚いた様子だ。何か言いたそうにしている。


「……え?」

「あ、いえ。なにも。はい、お先どうぞ」


 聞き返すと、はっとした後、彼は手を差し出して電車の入口までスペースを開けてくれた。

 ――やさしい。すぐに目を逸らしたけど、かっこよかったな。


「さっきはごめんね」


 電車は遠くから乗っている客で溢れていて、ドア付近でポールを持つしかなかった。近くでつり革を持ってバランスを崩さないように耐えながら声をかけてきたのは先ほどの彼だ。


 名前も知らないし、今日初めて見かけた男。


「俺、今日からここ使ってるんだ」

「そうなんですね……というか、なんで謝るんですか?」


 そもそも謝られる理由がわからない僕は聞き返してしまう。


「俺が本に夢中になっちゃって」

「はい……大丈夫ですよ、特にけがもないですし」

「やさしいね」


 ――僕が。やさしい。


 そこからは会話はなくなった。

 僕もスマホに目を向けていたし、謝ってきた割に彼は車内でも本を読んでいた。左手はつり革、百八十はあるだろうか、その高い背丈に釣り合う大きな右手で文庫本のページをめくる動作までやってしまうのだから、かっこいい。


 ちら、と横目で見ても、肌はもちもちしていそうだし、荒れてもいない。薄めの唇、どれを見ても。――きれいだ。


 移り変わる景色を眺め、時折読書を続ける彼を見る。


 十分ほど揺られると、僕の降りる駅はすぐそこだ。


 彼がどこの駅で降りるのか気になっていたら自分の降りる駅になってしまった。静かな音をたてて開くドアと、その前に立っていた彼がまた道を開けてくれて、僕はスっと会釈をしてホームに降りた。


 学校からの最寄りは無人駅ではなく大きめの駅で、そこそこ人も行き交っている。


 僕がなぜここまであの男性が気になるのか、自分でもわからないが、ただ洗いたての朝日に照らされた瞳がきれいで、艶のある声もまた壮麗というのだろうか。僕の脳裏に焼き付いて離れなかった。


 僕はこの駅に着く七時五十分、中学の時に転校し、偶然にも高校でまた再会した幼なじみと待ち合わせをして登校する。駅から歩いて十分の距離を、いつもくだらない会話をしながら進むのだ。


 時計台の下で待っていると、遠くからでもわかる長身の彼がやって来た。


「葵、おはよう。お待たせ」

「おはよう、滉平」


 滉平はかっこいい。

 男の僕から見ても、モテる理由がよくわかる。小学校から野球をしていて運動神経がよかったし、愛嬌もあるため先生からも生徒からも人気だった。


 そんな彼が、地味で勉強しか取り柄がない僕と一緒にいてくれるのは、きっと引き立て役になるからだ、なんて自虐めいたことを考えていた時期もある。


「ふぁあ……眠いな、それに一段と冷える」


 大きく伸びをしながら滉平は言う。

 確かにここ最近いっきに冷え込むようになった。秋の訪れはあっという間に過ぎていく。


 滉平は道路に蹲っている石ころをサッカーボールのように蹴りながら歩いた。カラカラと音を立てて転がる石を、自然と目で追いながら僕も足りない歩幅で歩く。


「葵は今日の世界史の予習やった?」

「うん……そんなにむずかしくなかったし……」

「そうかぁ? 俺アメリカの独立記念日とかわっかんねーわ」

「まぁ、……この先覚えておかないといけないことなのかなぁとか、……それは思うとき、あるよ、僕も」


 革靴の僕と違ってスニーカーの滉平は足が長いので歩くスピードも早い。僕より十センチは背も高いし、運動が得意ではない僕が唯一登校のときに疲れる時間だ。


 校門に立っている生徒指導の先生に挨拶をして、靴を履き替える。そのとき、だいたい滉平は同じ野球部の部員や女子に捕まる。


 そのタイミングで僕はいつも滉平と分かれる。


「滉平! おはよ! 尾上も一緒じゃん、おは」

「う、うん。おはよう」


 最近の言葉でいう、「陽キャ」という眩しいオーラに照らされて、僕はぎこちない挨拶を返すのだ。そそくさと彼らの前から姿を消し、教室の窓際の自分の席に座って授業の開始を待った。

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