記憶喪失の青年はカフェで働き学園に通う ~失った分の幸せを取り戻すまで~

在原ナオ

第1話 記憶喪失です


 俺の名前は七識舞宵ななしまよいと言うらしい。『言うらしい』という曖昧な言葉を使っているのは、俺が記憶を失っているせいで、この名前が本当に自分の名前かどうかもわからないからだ。しかし、名乗っていて違和感はないためこれが自分の名前なのだと思う。


 そんな俺が唯一覚えているのは自分の名前と激しい爆発音だ。俺は家族旅行中に交通事故によって両親を失ってしまったらしい。こちらも『らしい』という言い回しをしているのですぐに伝わると思うが全く覚えていない。


 なんでも高速道路で曲がり切れずに壁に衝突し、そのまま運悪く漏れ出たガソリンに火花が散って引火して車が軽く爆発したのだとか。そのせいで現場は騒然となり通行止めとなったらしい。


 そんな事故の当事者である俺は気が付いた時には病院のベッドの上でボーっとしていた。何とか自分の名前を思い出すことができたものの、それ以外はサッパリ。だからこそ俺は素直に両親の死を悲しむことができなかったのだ。きっと本当の俺なら両親の死を嘆き悲しんでいたことだろう。だが、記憶が曖昧な俺にはそんな感情が湧かずただただ困惑するばかり。



 そんな俺は新たな窮地に陥っている。俺のベッドの横では主治医の先生が座っており真剣な顔で佇んでいる。今俺たちが話しているのは病気の事でも怪我の事でもない、全くの別問題だ。主治医である医者は俺に近況を告げる。



「施設が入所を断った……ですか?」


「うん、申し訳ないけど健康で若い君は入所条件を満たさなかったらしいんだ」


「そ、そんな。俺はこれからどうすれば……」


「私も色々模索してみるよ。けど、正直期待しないでほしい」


「は、はい」



 俺は交通事故によって軽い怪我をしていたのだが、もうすぐ退院というところまで回復した。それこそ、施設から健康だと判断されるくらいには。健康な俺がどうしてまだ病院のベッドにいるのかというと単純に居住先が未定だったからである。



 運が悪いことに、家族旅行をしていた最中に七識家は火災で燃えたらしい。専門家の話によると、原因は加湿器を空の状態でずっと焚きっぱなしにしていたことで生じた発火だという。そのせいで家はほぼ全焼。名実ともに俺には帰る場所がなくなってしまったのだ。しかも、お金や物もほとんど残ってない。


 だが病院としてもこのまま俺を居座らせるわけにはいかない。ここにはひっきりなしに患者が来るのだ。俺のような健康な男子をいつまでもベッドで寝たきりにさせないだろう。つまり、数日中にはここを追い出される。



「……俺、これからどうなるんだろ」



 警察などが協力して親戚などに連絡を入れてくれたらしいのだが、そのすべてが俺の引き取りを拒否した。どうやら俺の両親は相当嫌われていたらしい。俺の体には事故とは関係ないと見られる傷もあったらしいから、もしかすると乱暴な人たちだったのかもしれない。



「学校にも通ってたらしいけど、そんなのほとんど覚えてないしなぁ」



 数週間ほど前、クラス担任を名乗る男性が俺のもとを訪ねて来た。その人は俺の現状を酷く嘆いており、温かい言葉をいくつもかけてくれた。その人の言うところによると、俺は現在出席停止の状態になっているらしい。事故による留年などの心配はしなくてもよいのだとか。



「勉強って、何してたんだっけ?」



 当然ながら通っていた学校での記憶も全くない。なんとなく各教科の知識はある程度覚えているのだが、それ以外は全く思い出せない。医者が言うには自転車の乗り方や泳ぎ方など、体が自然に覚えていることは忘れないらしい。そして都合よく自分自身のことを思い出せないと。


 当然だが友達などのことも思い出せない。俺がどのような交流をしていたのかは不明だが、唯一無事だったスマートフォンにいくつか連絡が届いていた。だが、俺がパスワードを覚えていないため画面が開かず内容を確認できないのだ。つまりこのスマホは緊急電話しかできない板と化してしまったのだ。



「俺にも何か、夢や悩み事があったのかな……」



 もしそうなら、それは永遠に叶いそうにない。俺は絶賛人生の迷子中だ。そんな奴が今更夢を見つけたりすることができるのだろうか。かつての記憶だって思い出せるかわからないのだし。



『もしかしたら、君の記憶は一生戻らないかもしれない』



 医者から告げられたのはそんな残酷な現実だった。こうなってしまった以上俺は新たな七識舞宵として第二の人生を送るしかないのだが、身寄りも目標もない状態で俺に何ができるのだろうか。いっそこのまま死んでしまった方が楽かもしれないとさえ思える。



 そんな葛藤から数日が経過し、とうとう俺は病院を退院することになった。退院というより、追い出されるという形に近いのだろうが。わかっていたことだが、主治医の表情は不思議と軽かった。膨大な数の患者を捌いているのだから、俺一人に特別な対応をするわけがないというのは分かりきっている。だが、ここまで明るく来られるのもそれはそれで心に響くのだ。


 やはり俺の事なんて心配の欠片も……



「七識くん見つかった! 見つかったよ! 君を是非引き取りたいという親戚の方が!」


「……え?」


「支度ができているならそのまま荷物を持って受付の方まで来てくれ。親戚の方が待ってるよ」



 医者はそう言って病室を出た。俺は何を言われたかすぐには脳内で処理できず呆然としてしまう。だが、これから不安定な生活を送る以上はどのような非常事態でも受け入れなければならない。


 医者の話を聞いて不安が期待に代わるも、すぐにそれは新たな不安へと変わってしまう。会ったこともない(そもそも覚えていないが)親戚に一人で会うというだけでも緊張するのに、これから面倒を見てもらうのだ。もしかしたら酷い目に遭わされるかもしれないし、すぐに放り出されてしまうかもしれない。



「俺、震えてる……」



 記憶にはないが、似たような不安を覚えたことがあったのだろうか。例えば実の両親に酷い目に遭わされたとか。本人たちはもういないし俺も覚えていないので真相は闇の中だが、不思議と体は覚えている。案外本当に虐待まがいのことをされていたのかもしれない。



「……けど、行くしかないよね」



 どちらにしろ俺は一人では生きていけない。お金を稼ぐ手段も、どこに住むかなどもいまだに未定なのだ。ならばいっそ、その誘いに乗ってみるしかないだろう。


 俺はもはや役に立たないスマートフォンを手に持ち最低限の着替えを持って病室を出る。ちなみにこの着替えは病院の人から無償でもらうことができた下着などだ。なんでも看護師の人が俺のことを不憫に思ったらしく気を遣ったのだとか。お礼を言いたいが、本人が名乗り出てくれないためそれもとうとう叶わなかった。今はその気遣いに感謝するしかない。



 そうして俺は長い廊下を歩く。トイレなどで何度も歩きなれていた廊下だったのだが、今日はいつもより短く感じた。きっと俺の不安を象徴しているのだろう。



 俺はエレベーターで一階まで降りてそのまま受付へと向かう。ここで最後の手続きを行うことになっているのだ。俺がそこへ向かうと、主治医の先生が待っていてくれた。そしてその隣には大人の女性が立っていた。



(うっわ、派手な人きたー)



 黒のドレスにピンクに染めたロングヘア。まるで流行に目ざといファッションショップの店員のようだ。その女性は俺のことを一目見て静かに手を振ってきた。



「七識君、彼女が君の引き取りを受け入れてくれた九条文乃くじょうふみのさんだ」


「どうも九条です。えっと、七識舞宵君だね?」


「は、はい」


「ふーん、あんまり似てない……けど、まぁいっか!」



 何というか、フットワークの軽そうな女性である。ただ、笑顔が美しい女性だなと同時に思った。九条さんは主治医とその後なにやら話し合っており、さらに書類にサインをし始めた。あれは一体……



「それじゃ、行こうか舞宵君」



 しばらく黙って二人が話し終わるのを待っていると、病院を出るように九条さんが催促する。俺もそれにしたがって僅かな荷物を持ち病院を後にした。主治医の先生が後ろで手を振ってくれたので、俺も入院期間中の感謝を伝える意味を込めて手を振り返しておいた。



「さて、本当なら車でバーッと送迎したいところだけど、私って車持ってないんだよねー」


「は、はぁ」


「というわけで電車に乗って少し移動するけどいいかい?」


「か、構いません」



 どちらにしろ俺に拒否権はないので九条さんについていくことにする。案外近くに最寄り駅があったようで、病院から五分ほど歩き駅の構内に入場する。当然だがこの辺の景色に覚えはない。



 俺と九条さんは運よく電車の椅子に座ることができた。周りを見回しても知っている人や覚えてる景色は一つもない。俺は本当に一人なんだとこの時になって深く自覚する。だがそんな心配を汲み取ってくれたのかは知らないが九条さんがようやく落ち着いて話してくれる。



「さて、ここから三駅くらい移動するから、その間にもう一度自己紹介しておくよ。私は九条文乃。文乃でいいよ。私は君の、あー……親戚、みたいなものだ。そしてこれからは保護者でもある」


「よ、よろしくお願いします。俺は七識舞宵です」


「まったく、覇気がないなぁ。自分の名前くらい自信をもって名乗りなさい」


「は、はい。努力します」



 やはりこの名前は名乗り慣れない。呼ばれるのにはようやく慣れたのだが、自分から名乗ると途端に自信がなくなってしまうのだ。警察にもこの名前で間違いないとお墨付きをもらっているににもかかわらずだ。



(でも文乃さんも、言葉の節々で自信がなくなっていたような?)



 もしかしたら何かあるのかもしれないが、俺にそれを聞く権利は現時点でないだろう。とにかく、今聞くべきはこれからどうするのかという話だ。それを聞かないと俺も安心できない。



「舞宵くん、これから君にはとある場所で生活してもらう。ただし、一つ条件があるけどね」


「じょ、条件ですか?」



 これから面倒を見てくれるとは言っていたものの、もちろんただでそれをしてくれるとは思っていなかった。むしろ予測していた展開である。そして一つと言うあたり、その一つがかなり特殊な条件であることが伺えるのだ。



「条件って一体……」



 電車が激しく揺れるが俺は構わずに聞き返す。これからの自分の運命を大きく左右する気がするからだ。俺は固唾を飲んで彼女の発言を待った。



「うん、舞宵君。君にはね……」



 そんな文乃さんは待ってましたと言わんばかりに目がぎらつき、俺のことを食い入るよう、あるいは見定めるように見つめ返す。美人な人だから緊張してしまうも、負けじと俺も目を離さない。そして、彼女の口から呟かれた条件は……



「うちのカフェの、オープニングスタッフになって欲しいんだ」

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