第6話 遠景

「悪いことをしたんだから処分は受けて当然」という主張の数人の生徒を除き、雛乃のクラスでは大多数の生徒が嘆願書に署名した。風間のクラスでもかなりの数の署名が集まった。他学年の生徒や、単に面白がって署名する生徒も含め、学校全体で約三分の一が署名した。生徒会での議定に必要な全校の半数以上には満たないものの、生徒が自主的に一日で集めた署名にしては上出来だった。職員会議のために一時間繰り上げられて終業になった五時間目の終わりに、雛乃と須田は嘆願書を柿本に渡した。柿本は、かなりの厚さになった署名の用紙に目を落とし、「よくやったな」と言った。

 火曜日、風間と鳴沢は晴れて謹慎解除となった。クラスの朝礼で柿本は皆に礼を言うように鳴沢を促した。鳴沢は気まずそうにしていたが、やがて席から立ち上がって「ありゃしたっ!」と頭を下げてすぐまた席に着いた。


 二月になり、郊外のスポーツ公園で全校マラソン大会が例年通り開かれることになった。男女別で各クラスの生徒の順位がカウントされ、クラス対抗のポイントになる。ポイントの合計数が少ない三位までのクラスが表彰される。鳴沢はサボる気でいたが、雛乃が見逃すはずはなかった。体育の授業で千メートルのタイムを取るといつも上位に入るのが鳴沢だからだ。去年は、走るふりをして途中で風間と二人で逃げ出したが、今年は出席停止に反対してもらった恩がある。しぶしぶ本気で走ることを約束させられた。

 鳴沢は真面目に走ったが、陸上部でいつも練習している生徒には及ばない。全校男子中で五位だった。雛乃は全校女子では九位だった。

 雛乃が肩で息をしながらクラスの荷物をまとめてある場所まで来ると、近くのコンクリートの壁にもたれている鳴沢が目に入った。首に掛けたタオルで顔を拭いていた。雛乃は自分の荷物を取って、鳴沢のところまで行くと息を切らせたまま「女子9」と印刷されたメモを見せた。鳴沢もまだ息が上がっているようで、無言で「男子5」というメモを見せた。雛乃は少し驚いたような顔で親指を立てると、鳴沢は片合掌で応えた。雛乃は荒い息のまま、何も言わずに鳴沢の横に座った。二人で並んで、他のクラスの生徒が順にゴールインしてくるのを眺めた。

 ようやく声が出せるようになった頃、雛乃が聞いた。

「……須田くんは?」

 鳴沢は首を振った。

「知らねえ。三百位くらいになったら来るんじゃね?」

 雛乃は少しあえぐように笑った。そのとき、遠くでゴールする菜々未が見えた。一人の生徒が菜々未に近づいて順位の書かれたメモを渡した。メモを覗き込んだ菜々未は嬉しそうな表情になり、ぐるりと辺りを見回した。友達を探しているのだろう。雛乃と目が合った。菜々未はそのまま雛乃の方に走って来た。雛乃はちらりと鳴沢を見た。鳴沢は首に掛けていたタオルを頭から掛けようとしているところだった。

「見て! お姉ちゃん! あたし三十位に入った!」と菜々未は嬉しそうにメモを見せた。メモには「女子28」とあった。菜々未の息は軽く上がっていたが、話せないほどではなかった。鳴沢や雛乃のように全力では走らなかったのだろう。それでも、額に汗が浮かび頬が赤らんでいた。遠くで「なーなーみーん!」と呼ぶ声が聞こえた。菜々未は振り返って「イトっち! 二十八位! あたし!」と叫んだ。イトっちと呼ばれた制服のままの生徒は「ななみん、クラスの女子で一位だよ! 三位までは表彰状あるって!」と手を振った。菜々未は、雛乃を振り返って「だって! じゃね!」と言うとイトっちの方へ走って行った。

 雛乃は鳴沢がどんな顔をしているのか気になって、鳴沢を振り返ったがタオルの陰に隠れて鳴沢の表情は見えなかった。鳴沢は年季の入ったペットボトルの蓋を開けて一口水を飲んだ。雛乃は友達と合流してメモを見せる菜々未に目を戻した。

「お前の妹はずいぶん変わったな」

 鳴沢はペットボトルの蓋を締めながら言った。

「……そう?」

 雛乃は興味なさそうに答えた。

「ひよこみたいだった。最初は。お前にくっついて」

 雛乃は思わず笑った。確かに菜々未はここ半年でずいぶん変わった。背が伸びて、ぶかぶかだった上着はぴったりになった。子供こどもした表情も喋り方もなくなって、代わりに思春期の少女らしい移り気で高ぶりやすい様子で話すようになった。むやみに雛乃を頼ることがなくなったことも大人になったんだな、と思わせた。

 菜々未とイトっちは、荷物置き場の近くに腰を掛けておしゃべりを始めた。イトっちは自分のかばんの中から、密封容器を取り出すと菜々未に勧めた。小さく切った果物が入っているらしく、菜々未は一つつまんで口に入れた。そして、目を大きくして口に手をやった。イトっちを振り返って、「おいしー!」と言っているのが遠目に見てもわかった。イトっちも菜々未を指差して「でしょ! でしょ!」と言いながら、二人で笑った。

 雛乃はぼんやりとその様子を目にしてつぶやいた。

「……かわいいよね」

「うん」

 そう答えた鳴沢を雛乃は思わず振り返った。自分も意識して言ったわけではなかったが、鳴沢も自分の返事に戸惑ったようだった。

「ちげえよ。そういう意味じゃねえよ」

 鳴沢はタオルを目深にかぶって横を向いた。

 雛乃はタオルに隠れた鳴沢を見ていたが、しばらくして言った。

「紹介してあげてもいいよ。まだあんまりそういうの興味ないとは思うけど」

「ちげえって」

 鳴沢は、恥ずかし紛れにまたペットボトルから水を飲んだ。

 そのうちに菜々未たちは、友達がゴールする度に拍手をしたり、手を振ったりし始めた。

「俺が言ったって怖がらせるだけだろ……」

 ふとつぶやいた鳴沢の言葉は、雛乃の胸を締め付けた。

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