第5話 交渉
それから二人は須田の家で、署名の用紙を印刷し、(鳴沢だけでなく風間の名前も入れた)嘆願書の文面を考え始めた。須田の母親が途中から一緒になって文章を書いてくれ、署名もしてくれた。雛乃は学校の連絡網を使って、特別朝会を開くので明日の朝はなるべく早めに来てくれるようクラスメイトに連絡した。クラブの友達や、以前に一緒のクラスだった友達にもメールやメッセージを送った。須田に倣って、両親にも署名を頼んだ。言うまでもなく、菜々未にも書かせた。しかし、菜々未には何の署名なのかは説明しなかった。ただ、「ちょっと菜々ちゃん、ここにクラスと名前書いて」と頼んだだけだった。菜々未は姉の言うことなので、黙ってそのとおりにした。
月曜の朝には一時間目の授業の代わりに体育館で緊急朝礼が開かれた。校長から、他校の生徒が四人、校舎に無断で入ってきたこと、自校の三年生の生徒二人と乱闘になり、二人のうちの一人の生徒が三階から机を校庭に投げ飛ばしたことが報告された。続いて、それら生徒の処分を決定するべく本日午後に職員会議を開くため、すべての授業は五時間目で終了し、全生徒は直ちに帰宅するよう指導された。また、本件について外部の者に尋ねられても答えないように勧告された。
雛乃はちゃっかり体育館の舞台袖で校長の退出を待っており、話を終えた校長に「生徒会から連絡があるのでいいですか?」と聞いた。校長は不思議そうにしたが、「ああ」と言って雛乃が壇上に行くことを許した。雛乃はしれっとした様子で、「生徒会から連絡です。退出時に各クラスの生徒会委員は出口で副生徒会長から連絡票を受け取ってください。細かい指示は用紙に書いてあります」とだけ言ってお辞儀をして下がった。教師たちは狐につままれた様子で互いに顔を見合わせた。
須田の母親の助けを受けて、雛乃と須田が作った嘆願書の内容は次のようなものだった。
今回の事件は事故である。他校の生徒が不正に校内に侵入し、鳴沢と風間に暴行を加えようとした。他校の二人の生徒が椅子と木刀で鳴沢を襲おうとしため、これを防御するために鳴沢は机を振りかざした。このとき、仲裁に入った生徒会長の予期しない声掛けに驚いて、鳴沢は窓側に机を倒してしまった。過失に対して懲戒処分を加えるのは過剰制裁である。鳴沢と風間の出席停止に反対する。
須田と雛乃はこの嘆願書に署名の用紙を付けたものを体育館の出口で配った。嘆願書の部分はホチキス止めにして、「教室に着いたら開いて」と言って渡した。教師に止められるのを防ぐためである。それでも二時間目の終わりに、雛乃は柿本に職員室まで呼び出された。教頭の前で嘆願書について説明しろという。須田は「俺も行く」と言って、雛乃に着いていった。廊下を歩きながら須田は雛乃に「俺が説明するから」と囁いた。
教頭は機嫌が悪かった。「教師がこれから決定しようとしていることに生徒が口を出すべきではない」とぴしゃりと言った。須田は雛乃に目配せをしたが、雛乃は構わず先に口火を切った。
「私たちがいくら署名を集めたからと言っても、決定を下すのは先生方だと言うのはわかっています。でも、嘆願書に書いたようにこれは事故です。鳴沢くんが机を投げようとしたとき、私は教室に入りました。二人の他校の生徒が鳴沢くんの反対側に立っていて、一人は椅子を持っていて、もう一人は木刀を持っていました。私は鳴沢くんに止めるように言いましたが、鳴沢くんはもう机を投げる体勢になっていて、私が声をかけたことで手元が狂ったんだと思います。私が声をかけなければ、教室の床に落ちるだけで済んだかもしれません。土曜日に私は職員室に呼ばれなかったので、このことは説明できませんでした」
教頭は意地悪そうに言った。
「かばっても君のためにならないよ」
「かばっていません」
雛乃はむきになった。そこで須田が口を挟んだ。
「逆に、音羽さん以外の誰が中立的な立場であのとき何が起こったのかを説明できるんでしょうか。柿本先生は廊下にいました。風間くんと鳴沢くんは自分の立場からの説明をしたでしょうし、他校の生徒も自分の都合のいいように説明したでしょう。たった一人の目撃者を信じないと言うんですか」
教頭はむっとして「信じないとは言っていない」と反論した。
「それでは先生たちは誤って事故を起こした生徒を出席停止にするんでしょうか。生徒会は、先生たちに間違った判断を下して欲しくないために行動したまでです」
「それがでしゃばっていると言うんだ!」
教頭は声を荒げた。須田はひるまなかった。
「僕たちの学習権は憲法二十六条第一項で保証されています。日本が批准している国連の児童の権利に関する条約の第三条にも『児童に関するすべての措置をとるに当たっては』どんな機関がそれを行うにしても『児童の最善の利益が主として考慮されるものとする。』とあります。事故が原因で出席停止にするのが鳴沢くんの最善の利益になるとは思えません」
よほど下調べをしたのだろう。須田は立て板に水のごとくだった。
教頭の顔はみるみる赤くなり、「君っ、クラスと名前を言いなさい! 君の親にも来てもらう!」と唾を飛ばしながら怒鳴った。
雛乃と須田が職員室から追い出されたとき、もう三時間目のチャイムが鳴って授業が始まっていた。廊下を足早に歩きながら雛乃が小声で言った。
「須田くん、すごいね。あれ、暗記したの?」
須田は黙って両手のひらを雛乃に見せた。教育法やら権利条約やらの条項の番号と内容がびっしりと書かれていた。
「うわ……。でも、あんなに言っちゃって……。大丈夫なの? お母さんに怒られるんじゃない?」
雛乃はこわごわ聞いた。
「デュエルしたがってるのはうちの親だよ。これも全部仕込まれたんだ」
筆跡が違う右手のひらをもう一度見せながら須田は言った。
「俺、内申大丈夫かな……」
昼休みに教室に来た柿本は、須田と雛乃を近くに呼んで昼食を取った。
「結論から言うと、署名は続けていい」
食事を始める前に柿本は言った。雛乃と須田の顔は輝いた。
「校長は、とりあえずお前たちの署名活動を許可することにした。下校時間までに集まった署名を俺のとこまで持ってこい。後は俺が職員会議でなんとかする」
柿本は牛乳パックにストローを突き刺した。
「『なんとかする』って……先生味方してくれるんですか」
雛乃は上目使いで様子を見るように言った。柿本はストローで牛乳をすすりながら、うなずいた。そして、口を外すと須田に言った。
「お前、ずるいな。お母さんプロじゃないか」
雛乃は須田を見た。須田は肩をすくめた。
「プロってなんですか?」
雛乃は柿本に聞いた。
「大学で法律教えてるんだよ」
そう言って柿本は机の下から書類を取り出した。
「メールで送ってきてさ、俺も取り込まれちゃったよ。ほかの先生たちにも配れって」
雛乃は書類を取り上げて、ぱらぱらと頁を繰った。教育基本法とか学校教育法施行規則などと書いてあるのが読めた。
「出席停止が権利侵害に当たる可能性から始まって、生徒にとっても、学校にとっても良いことないってのがびしっと書いてあるんだ。これだけで論文みたいだよ。具体的に法律とか論文とか引用されてて」
柿本は給食を頬張った。雛乃は須田を見たが、須田は他人事のように給食を食べていた。
柿本は口の中のものを飲み込むと続けた。
「もう一つすげえのはさ、うまいことこっちのこと持ち上げちゃうんだよな。電話の終わり頃には教頭なんかすっかりいい気になって、『生徒の自主性を大事にするのがうちの校風ですから』なんて言っちゃって」
「先生はなんて言われたんですか?」
雛乃が聞いた。
「俺? 俺は別になんにも言われないよ。もともと出席停止は反対しようと思ってたし」
「そうなんですか?」
雛乃は意外そうな声を出した。
「出席停止なんて出してみろよ。俺が無能だって言われてるようなもんだろ。まあ、鳴沢のことはお前に任せっぱなしにしてたから、文句は言えないけどな」
雛乃は柿本が取り繕わずに話してくれたことに少し驚いたが、同等に扱ってもらったようで嬉しかった。
「俺としては、卒業まで大人しくするように鳴沢に約束させるから出席停止にしないで欲しいって頑張ろうと思うのよ」
柿本は箸で要点を抑えるようにした。しかし、須田は懐疑的だった。
「どうやって約束させるんですか。今までだって全然無視じゃないですか」
「出席停止にしない代わりに大人しくしろって。あと、お前たち二人の間に座らせる」
「えっ、また俺らがどうにかするんですか」
須田はいかにも不服そうだった。
「俺もいっぱいいっぱいなんだよ。」
柿本は仕方なさそうに須田を見た。
「ポイントあがるよ」
こそっと言う雛乃を須田はちらりと見た。それを聞いて柿本も続けた。
「そうだよ、内申にうまいこと書いてやるからさあ。頼むよ」
柿本は両手を合わせた。
「あー、俺、推薦だったら良かったのになぁ」
須田は不満をたれたが、雛乃はまた鳴沢の横に座れると思うと胸が弾んだ。
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