第3話 事件

 二学期になって、雛乃は鳴沢から遠い席に移ると鳴沢に構うのを一切止めた。自分で決めたとおり、失恋の痛みは受験勉強で忘れようと思った。須田にはこんな時期なのであまり人に知られたくないと言い、表立って一緒に帰ったりなどはしなかった。ときどき図書室で一緒に勉強したり、夜にメッセージでおしゃべりをする程度だった。菜々未が誰とメッセージを交換しているのか聞いたが、仲の良い女友達の名前を出してごまかした。そもそも、中学に入ってから何かと当たりの厳しくなった雛乃に、菜々未があまり立ち入ったことを聞くこともなくなっていた。


 同じ頃、教室の話題といえば高校受験と模擬試験ばかりだった。雛乃は県内でも有数の進学校を目指していた。鳴沢は就職組だった。鳴沢は授業を聞いていない割りに、雛乃のサポートもあって試験の成績はそれまでどの教科も五十点前後だった。柿本は少し真面目に勉強すれば、そこそこの高校を受験できると言ったが、鳴沢は興味がなかった。父親が授業料を払うとも思えなかったし、それよりは自分で稼いで早く家を出たかった。もう雛乃もうるさく言ってこない。成績が悪くても中学は卒業できる。そのせいで、授業に出ない日も増え、時には授業中に風間たちと教室の後ろで騒いだりした。雛乃が何も言わなくなった代わりに須田がときどき注意したが、鳴沢たちの反感を買うだけに終わった。


 十一月のある土曜日の午後、雛乃はクラブ活動で体育館にいた。三学期になると三年生はクラブ活動に参加しなくなるので、今は二年生への引き継ぎで忙しかった。突然、「雛乃! ひな!」と呼ばれ、振り返ると体育館の入り口から同じクラスの友達が走り込んで来たところだった。

「大変だよ! 鳴沢たちが教室で暴れてる!」

 友達と教室に走って戻る途中に受けた説明によると、風間と鳴沢は先日、市内にある山辺中学校の不良の二人と喧嘩になり、相手をのしてしまったらしい。その報復に、山中の不良が仲間を引き連れて乗り込んで来たそうだ。教室の近くまで来てみると、廊下では、先に駆けつけた柿本が他校の生徒二人を捕まえたところだった。まだ残っていた数人の生徒が出入り口から教室の中をこわごわ覗いている。その生徒たちをかき分けて、雛乃が教室に入ると、机は乱雑に押し退けられ、いくつかは倒れていた。椅子も横倒しになったり、逆さまになって床に転がっていた。その中で、風間は木刀を手に狂ったように高笑いをして「行け! 陽介! やっちまえ!」と叫んでいた。そして、いくつかバリケードのように並べた机の向こうで他校の生徒の一人が身を守るように椅子を突き出し、その後ろにもう一人がへっぴり腰で別の木刀を構えていた。鳴沢はその二人に向かって机を持ち上げたところだった。

 風間が「やれ!」と声高に叫ぶのと同時に、雛乃も叫んだ。

「だめ! 鳴沢、やめて!」

 一瞬、鳴沢は雛乃を振り返った。鳴沢は、鬼のような表情だった。怒りで顔が赤黒く染まり、眉間に深い皺を寄せ、門前に立つ仁王のようだった。鳴沢の身体は既に机を投げる動作に入っていた。鳴沢は、再び机の向こうで構える二人の少年たちに目を戻した。

「鳴沢!」と雛乃が再び叫んだとき、鳴沢の手から机が離れた。鳴沢が投げ誤ったのか、意図的に投げる方向を変えたのかはわからない。机は弧を描いて、机に隠れた少年たちを反れ、窓ガラスを突き破った。

 がしゃんと大きな音を立てて、まずガラスが割れ、それから机の重みでガラス窓の枠が歪み、窓は枠ごとレールから外れ、机と共に校庭に落ちていった。どさりと階下から音が響いた。机と窓は植え込みに落ちたようだった。

 廊下から女生徒の悲鳴が聞こえた。校庭からも生徒が声を上げ、校舎に近づいて来る足音が聞こえた。柿本が駆け込んで来て、鳴沢の名を呼びながら腕を掴んだ。鳴沢は柿本の手を振り払って、彼を睨んだ。その目が潤んでいると思ったのは雛乃の見間違いかも知れない。鳴沢はそのまま何も言わずに教室から飛び出した。柿本が鳴沢の名前を呼んだが、鳴沢はそのまま廊下を走って行った。職員室から他の教師も駆けつけ、風間と他校の生徒は取り押さえられた。

「警察を呼びましょうか?」と一人の教師が言っていた。雛乃は、「そんな!」と言ったが、その教師はちらりと雛乃を見ただけで柿本に目を戻した。柿本は「とりあえず、職員室で話を聞きましょう。校長にも連絡してください」と答えた。それから、生徒たちに向かって「君たちはもう帰りなさい。クラブ活動もすぐ中止して」と言った。雛乃は「私も職員室に行っていいですか?」と聞いたが、柿本は首を振った。

「もう君にできることはない。音羽も帰りなさい」

 複数の生徒たちで教室の机を元のとおりに並び替えようとしたが、それも止められた。警察に通報することになったら、現場をそのままにしておいた方がいいから、という理由だった。校内放送が入り、学校に残っている生徒は全員すぐに帰るように指示された。仕方がないので雛乃も帰ることにした。帰りがてら、教室を覗き込んでいた友達にどうしてこんなことになったのかを尋ねた。しかし、皆騒ぎが起きてから集まってきた生徒ばかりで、どんな経緯で鳴沢が机を投げるまでに至ったかは誰にもわからなかった。


 雛乃が学校から帰ると、菜々未は友達のところに出掛けていて家には誰もいなかった。一人では不安で、雛乃は仕事中の母親に電話をかけた。母は雛乃を心配して、仕事を早退して帰ってきた。雛乃は珍しく母親に抱きついた。母もしばらく雛乃について側にいた。夕方になって帰ってきた菜々未に母親は状況を簡単に説明して、雛乃にあれこれ質問しないよう、そして月曜日になってクラスの誰かに何が起こったか聞かれても、「知らない」と答えるように言いつけた。


 翌日、雛乃は鳴沢を訪ねることにしたが、両親は反対した。雛乃は須田に連絡を取り、一緒に行ってくれるように頼んだ。そして、須田に家まで来てもらって、一緒に行くという条件付きで出掛けることを許してもらった。須田と二人で鳴沢のアパートのドアをノックすると、父親が出て来た。父親は奥にいるらしい鳴沢に声をかけたが、鳴沢は出て来なかった。父親は、学校から処分が決まるまで自宅で待機し、誰とも連絡をとってはいけないと言われているので今日は申し訳ないが帰って欲しいと告げた。鳴沢の父親は疲れているように見えた。雛乃は須田と共にその場を辞することにしたが、帰り際にドア越しに「鳴沢! 学校で待ってるからね!」と声をかけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る