第2話 恋仇

 鳴沢は雛乃を家まで送り、帰って行った。翌朝、授業開始のぎりぎりの時間に鳴沢が教室に入り、雛乃の後ろを通り過ぎる時、鳴沢は雛乃に聞こえる程度の低い声で「こーしーぬーけー」と囁いた。雛乃は、途端に真っ赤になって、思い切り鳴沢の背中を叩いた。

 ばしん、という大きな音に教室中が振り返った。そこでは、学年一の不良が副生徒会長に叩かれて「痛ってぇ……」と唸っていた。

 雛乃はその日から鳴沢に恋をした。


 雛乃は副生徒会長という立場を口実に、鳴沢に積極的に干渉するようになった。授業に出ているときには、ちゃんと聞くように諭してみたり、ノートを貸したり、試験前には勉強を教えようとしてみたりもした。その度に鳴沢は「放っとけ」と言ったが、雛乃は諦めなかった。そのうちに、あんまり熱心な雛乃に周りが気が付いて、「鳴沢ぁ、奥さんの言うことも聞いてやれよぉ」と言ってからかったが、雛乃は「こんなバカ、私が好きになるはずないでしょ。先生に言われたからやってるの」と言ってごまかした。鳴沢も「うっせえわ」と一言返すだけだった。その様子を雛乃は「鳴沢もまんざらではないはず……」と解釈したが、本当のところはわからない。バレンタインにチョコをあげようかとも思ったが、勇気が出なかった。迷いに迷って、三年生でも同じクラスになったら告白することにした。例え、振られたとしても一年経てば卒業だ。失恋の痛みは受験勉強に打ち込んで忘れよう。万が一うまく行った場合は……、そのとき考えよう。

 そうして、三年生になり、雛乃と鳴沢は再び同じクラスになった。担任も前年と同じく柿本で、副生徒会長から生徒会長になった雛乃は再び門番を仰せつかり、前年と同じ最後列、出入り口のすぐ横の席を隣席の鳴沢と共に割り当てられた。雛乃はそれを運命だと信じ、何と言おう、いつ言おうと、毎日考えるようになった。しかし、振られても振られなくても、隣の席に座り続けるのは気まずい。自分の本当の気持は誰にも言わず、告白は毎日先延ばしにしていた。


 三年生になって変わったことがある。妹の菜々未が同じ中学に入学してきたことだ。中学生になったばかりの菜々未は、新しい学校生活になかなか慣れず、ぼんやりして忘れ物をすることが多かった。そうして忘れ物をすると、三年生だった雛乃のところに借りに来た。初めての忘れ物は体育着だった。

「……お姉ちゃん」

 学校では聞き慣れない呼びかけに驚いて振り返ると、教室の後ろの出入り口に菜々未が立っていた。まだ、制服も着慣れていなくて、大き過ぎる上着が初々しい感じを強調して可愛らしかった。

「どうしたの? 菜々ちゃん。大丈夫?」

 雛乃は自席から立ち上がって、菜々未の方に走り寄った。

「あのね……、体操着忘れちゃった。貸してくれる?」

 菜々未は小声で恥ずかしそうに言った。

「えー、いいけど……。もう着ちゃったよ、今日。汗かいて湿っぽいよ?」

 雛乃は菜々未を見下ろした。

「いい。大丈夫」と菜々未は首を振ると、「貸して?」と言って少し首をかしげて雛乃を見上げた。

 雛乃は席に戻って、机の横のフックにかけていた体育着入れを手に取ると、菜々未の方へ戻った。

「はい、どうぞ。また持ってこなくていいからね。そのまま家に持って帰って」そう言って、体育着の入った袋を菜々未に手渡した。

 菜々未は「ありがとう」と言った後、「洗って返すね」とおかしそうに笑った。

 雛乃は「ばーか。どうせお母さんが洗うんでしょ」と笑い返した。

 菜々未は小さな声で「じゃね、バイバイ」と言いながら、手を振って走って行った。

 雛乃は菜々未を見送ると、一つ息を吐いて、自席に戻るために振り返った。そのときに、隣の席にいた鳴沢と目が合った。

「何よ」

 雛乃が言った。

 鳴沢は今までに見たことのない表情をしていた。落ち着かないような、バツの悪そうな顔だった。

「……お前の妹か」

「うん、そう。菜々未っていうの。今年一年生」

「そうか」

 鳴沢はそっぽを向いた。

 何かが引っかかった。

「何よ」と雛乃は再び言った。

「何でもない」

 鳴沢は頭を掻きながら投げやりな様子で答えた。

 雛乃は不可解な面持ちで鳴沢を見た。


 次に菜々未は筆箱を忘れたと言って雛乃のところに来た。このとき雛乃は何人かの友達と廊下で喋っていた。背が高くてすらっとした雛乃と違い、まだ幼さの残る小柄な菜々未を友達は可愛いといって囃し立てた。予備のシャーペンと消しゴムを持って廊下に戻って来た時、やはり風間たちと廊下でたむろしていた鳴沢とまた目が合った。三度目に菜々未が来た時に、雛乃は鳴沢が誰を見ているのかをはっきりと悟った。雛乃はこの日、厳しい口調で菜々未に言った。

「もう、そんな忘れ物ばっかりしてだらしない。私だって面倒見きれないよ?」

「ごめんなさい……」と菜々未はしょげかえって言った。

 周りにいた雛乃の友達は「ひなー、そんなコワイ顔しなくても。妹ちゃん可哀そうじゃん」「まだ慣れないんだよ。うちの弟なんか帰りに校門で私のこと待ってるよ」などと口々に言い、菜々未をかばった。

 菜々未はずるい、と雛乃は思った。


 雛乃は毎朝菜々未の持ち物チェックをするようになった。母は姉らしいことをする雛乃を褒めたが、雛乃の思惑はまったく別のところにあった。妹が自分の恋敵になるなんて思いもよらなかった。学校ではなるべく自分の近くに寄らせないようにしなくては。こんなことならもっと早くに鳴沢に告白してしまえば良かった。今言ってもますます微妙になるだけだ。ああ、失敗した!

 学校では菜々未のダメっぷりをアピールした。「あの子鈍だからさ」とか「もういつまでも子供で」とか、鳴沢に聞こえるように、友達に菜々未の失敗話を披露した。去年まで甘々の姉バカだったはずの雛乃を知っていた友人たちは首をかしげるばかりだった。


 雛乃が須田に告白されたのは、そんなときだった。須田は二年生の時から生徒会のメンバーになり、上級生の指導の下で雛乃と一緒に文化祭のまとめ役をしたり、厳しすぎる校則を緩和するキャンペーンに参加したりしていた。須田は口数こそ多くはないが、調べ物や下準備が得意で意見を言わせれば教師もたじたじになった。今年同じクラスになってからは、雛乃が生徒会長で須田は副会長になり、一緒に作業をしたり、話をすることもぐんと増えた。鳴沢のことがなければ、雛乃は須田の告白を喜んで受けただろう。しかし、雛乃は鳴沢に夢中だった。「少し考えさせて」と須田には返事をした。


 そして翌日、昼休みのざわついた中、教室の一番後ろの席で小声で鳴沢に相談したのだ。須田に告白されてしまったと。そして鳴沢が「あんなのと付き合うのはやめろ」と言ってくれるかも知れないと期待しながら。

「……どう思う?」

 雛乃はこめかみの血管が切れそうなくらいドキドキしながら聞いた。

 その雛乃に向かって、鳴沢は笑顔になって爽やかに言ったのだ。

「いいと思うぞ」

 頭をがつんと殴られたような気がした。

「須田はおとなしいけど、しっかりしてるだろ。お前みたいに気が強くて完璧主義なのには丁度いいんじゃないか。それにしても須田は案外勇気があるんだな。お前は美人だけど、美人過ぎて気後れするって言うヤツばっかなんだぜ。須田の気が変わらないうちにとっとと付き合っとけ」

 雛乃の頭が真っ白になったところで、五時間目の始まりを告げるチャイムが鳴った。


 その日、雛乃は家に帰った後、菜々未と口を利かなかった。そして夜、二段ベッドの下段で寝付いた菜々未を確認してから、雛乃は布団をかぶってこっそり泣いた。

 雛乃は須田と付き合い始めた。自棄になったのもあるし、「後でホゾを噛むなよ!」と鳴沢に思ったのもある。悔し紛れに鳴沢には付き合うことを報告したし、特に仲の良い何人かの友達にも言った。しかし、菜々未には何も教えなかった。柿本には席替えを申し出た。受験なので授業に集中したいと言った。柿本も、去年から鳴沢のことを雛乃に任せっぱなしにしていたので雛乃の言うことももっともだと思い、二学期の始めに席替えをすることを約束した。

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