先生! 締切越えました!!(中編)
── 十一月某日 晴──
家に行ってもチェーンがかけられ開けられない。打ち合わせは電話。出会ったばかりの頃を思い出す拒絶。顔を合わせない日々は、ひと月にも及んだ。
「──と、言うわけなんですよ
「うーん、あいつ……」
ここは近所の飲み屋。自力でどうにかしようとしていたが、どうにもならず俺は結局瑠璃川先輩を頼ることになったのだ。瑠璃川先輩も雨宮先生の異変には気がついていたらしく、このひと月連絡を取っていたらしい。
「あの日体調悪そうで……俺もしかしたら何か余計なこと言ったんですかねぇ!」
「話を聞いても何も言わないんだよ。いやー何があいつの逆鱗に触れるかわからないからな……。でも多分、お前の問題ではなさそうだ」
本当ですかと顔を上げる。流石は瑠璃川先輩。先生のことを深く理解している。
「雨宮はまあ……色々あったせいで、恋を恐れている。元々あいつは、人の優しさに弱い。だから言ってしまえばわりとチョロい」
面倒を見たり世話を焼いたり、甘やかされるのに弱いらしい。
「だから、一段深いところに潜ることは簡単なんだ。しかし二段目──より深く入ろうとすると、あいつは拒絶する。タチの悪い防衛本能、とでも言うのかな。母親からの呪いと、今までの経験、それらがあいつの心に壁を作り、外から入る優しさを拒む。そこで、自分からふるいをかけるように厳しい言葉を吐く。傷つく前に、切り離そうって考えだ」
そう語る瑠璃川先輩は、いつになく優しい目をしていた。きっと先輩なりに、先生を引っ張り出そうとはしていたのだろう。
「あいつに必要なのは、その壁をぶっ壊すほど、強烈な何かだと思う」
呪いとか、トラウマとか、それらを全部吹き飛ばすほどのもの。今までの経験や悩みが全部どうでも良くなるほど強烈なもの。俺は、それを経験している。
「……恋、ですか」
「さぁ、どうだろうな。そこまでは俺にはわからないよ」
先輩は、酒ではなく水を飲み干した。
「とにかく、お前が間違いや勘違いじゃなく本気で雨宮のことが好きなら、手を貸すぞ」
びしり、と指を突きつけられる。
「雨宮はきっとこの半年で、お前にオチかけている。その気持ちを受け止めて、周りの目とか世間体とか一切かなぐり捨てて、愛せるか?」
間違いや勘違いじゃない? 愛せるか? 今更そんなこと、聞かれるまでもない。
「本気で、好きです。それを否定されるなら、家族や今までの友人を諦めてもいい。あの人がいない人生は、もう考えられません!」
俺の返答に、瑠璃川先輩は笑った。
「よし、わかった」
──同日、雨──
窓の外を見る。どうやら雨が降ってきたらしい。このひと月、飯を買いにコンビニに出る以外はほとんど家にいるから、季節と天気の変化には鈍くなっていた。
飛鳥を拒絶してから、ひと月。きっかけはただの八つ当たりだ。嫌な夢と体調不良のせいでヤケになって、酒を飲んだ。そのせいで引き起こした八つ当たり。
だからこそ、普通に接することができない。あの日に戻れたら、自分自身をぶん殴る。
スマートフォンを確認した。瑠璃川からのメッセージ。「今から家に行くぞ」。……は?
呼び鈴が鳴った。あの野郎……返信もないのにいきなり来る奴があるか! 苛立ちながらも上着を羽織り、玄関に向かう。飛鳥を入れないためのチェーンを外し、鍵を開けた。
「誕生日おめでとう! 雨宮!!」
「え、は? は??」
少し開けた隙間に足をねじ込み、開かれる。次の瞬間に飛鳥が倒れ込んできた。抱きしめる、というか覆いかぶさられる。
「な、なんだお前! おい!!」
「いい加減素直になればどうだ! 雨宮!!」
瑠璃川の声。……素直?
「お前に教えたよな。親切は受け入れろ、人の親切を受け入れられない人間はクソ野郎だと」
学生時代、限界だった俺を助けた言葉。同時に、飛鳥を救った言葉でもある。
「お前は正直見る目がない! それから、死ぬほどめんどくさい! でもそれを受け止めてくれる奴がいるのなら、甘えてみろ!!」
瑠璃川は左手を突き出した。その薬指、見慣れぬ指輪が収まっている。こいつはアクセサリーをつけるタイプではない。
「お前は、『俺達に恋はできない』と言ったらしいな? それは間違いだ! 俺はあいつに恋をした!!」
俺は瑠璃川のことを小学生の頃から知っている。そして、瑠璃川が「運命の恋」に出会うのを目の当たりにした。
「恋も、幸せになることもできる!! 俺達は一月に、結婚する。籍を入れることも、式を挙げることもできない。それでもいい。俺達は誰の目も気にせず、結ばれる!!」
高校時代に出会い、それから十年以上付き合い、結婚する。そんな、物語みたいなことが、本当に。
「一月、揃って俺の家に来い。俺達の幸福は、誰よりもお前達に祝ってほしい。家族より、お前達に」
瑠璃川は扉を閉める。
「誕生日おめでとう。雨宮」
そして、扉は閉まった。俺と飛鳥だけが、室内に残される。飛鳥は抱き締めていても、俺に触らない。まだ、勝負を守っている。
「おい……飛鳥」
飛鳥は無言で、俺を押した。
「おい、おい、話聞け、おい!」
ぐいぐいと押して、リビングへ。その体から酒の匂いがする。瑠璃川の野郎! 酒飲ませて、遠慮をなくさせてから連れてきたのか!!
「あの日のことは、悪かったから……だから」
謝罪にも、答えない。怒っているのか? わからない、頭が回らない。瑠璃川の言葉が頭の中を奔る。
「もう……友達には、戻れないのか?」
飛鳥が、俺の手を掴んだ。視界が反転する。いや、視界が染められる。背中に衝撃があって、飛鳥の髪が頬に触れる。
唇同士が、触れた。
銀の糸が唇を繋ぐ。ぷはっと甘い声と共に、熱い吐息が頬をくすぐった。熱に浮かされた瞳。酒のせいか、興奮のせいか、もしくはその両方か。薄い水の膜に覆われた瞳に、俺が映る。そこに映し出される俺自身の顔も──間抜けなほどに真っ赤で、嫌になる。
「すみ、ま、せん。黙らせるのには、これしか、無くて」
飛鳥はそう、唇を震わせた。カーペットの上へ投げ出された俺の手に、絡められる飛鳥の手。そして、先程のキス。──飛鳥は、俺に触った。「勝負」は、終わった。
「これも、ノーカンって、ことには」
「駄目に、決まってるだろ」
以前抱きしめられたのとは状況が違う。飛鳥は明確に俺を、押し倒した。覆い被さるその体制のまま、奴は俺から目を逸らす。自分自身に言い聞かせるよう呟いた。
「そう、ですよね。はい、俺、でも」
後半の声は掠れて聞こえない。酒に酔った勢いで、それは言い訳にはならないと、奴が一番よくわかっている。顔を上げ、目を合わせた。ぐっと唇を噛み締め、今にも泣きそうな顔で──飛鳥は言った。
「負けでもいい。貴方の、あんな顔を見ないで済むのなら」
振り絞るような言葉。
手が回され、体が起こされる。お互いに膝立ちになって、胸に縋り付いてきた。首に、胸元に、背に感じる飛鳥の熱。少し色の抜けた長めの髪が、俺の視界を覆っている。
「雨宮先生」
顔を見せないまま、言った。なんだ、となにもないふうに返す。もしかしたら、声がうわずっていたかもしれないが。
「好き、好きです。貴方が好きです。一年前、あのネオン街で貴方に出会ったときから、貴方しか見えていません。貴方が俺の運命です」
ぎゅっと、強く。それでいて、優しく。
「運命だとか、恋だとか、そんな言葉が安っぽくて信じられないとしても。そうとしか、言いようがないんです」
抱きしめられる。体の内で震えるのは、飛鳥の鼓動?
「それが理由じゃ駄目ですか? 一目惚れじゃ、理由になりませんか? お願いします、雨宮先生」
違う、俺の体の中で響く鼓動。これは、紛れもなく俺自身のもの。
「俺の気持ちに、応えてください。俺の『親切』を、受け入れてください」
必死に、泣きそうに、縋る姿。鼓動が、うるさい。喉の奥が震える。頭の先からつま先までが痺れるように熱い。
考えるな、振り払え。どうせコイツはノンケだ。いっときの勘違いでこうしてるだけ。いざ付き合えば、重いって言って離れていく。俺の好みは硬派かつ筋肉質な男。それも、付き合うなんて考えてない。そんなの理想だ。体の関係、一晩の関係でいいんだ。
──恋、だなんて。叶うはずが、ないんだから。
「俺は、貴方と恋がしたいんです。
名前を呼ばれた、その瞬間。思考が、重みが、トラウマが、過去の言葉が、くだらないプライドが。全部、全部砕ける音がした。
胸の内でくすぶっていた、名前のない感情が「好き」という形になって、余計なものを壊していく。過去の男から向けられた言葉、母親からの呪い、自分自身に言い聞かせた言葉、全部「好き」に飲み込まれていく。
伸ばされる手が、心の中の柔らかいところを撫でてつついて、甘やかしてきた。
「あ、すか」
「はい。白瀬さん」
胸にかかる飛鳥の息。ぎゅっと、そのあたりが締まって苦しくなる。こんなの、こんなの味わったことがない! こんな感情、どんな男と寝たって抱いたことがない!
「────」
「え?」
聞き返して、顔を上げる。その顔が、真っ赤に染まったその顔が。今までと違った輝きを見せる。
「もう、わかんねぇ。俺、お前なんて、好きじゃなかったのに。好みじゃ、なかったのに!」
「せ、せんせ?」
「恋なんてとっくに……っ! 諦めた、のに!」
驚いたような、困ったようなその顔が──たまらなく愛おしい!
「俺の、負け。飛鳥、お前のことが、好き、だ」
丸く目を見開いて、その目に映るのが怖くて。俺は飛鳥の背に手を回す。その肩に、顔を埋める。
「絶対、捨てるな。絶対、投げ出すな。俺は、重いぞ」
「し、知って、ま、す……」
「あとっ……わがまま、だし、甘えるし、依存、する」
「わかり、ま、した」
「それ、と。もっと、触ってほしいし、もっと抱きしめてほしいし、もっと……好きって、言って、ほし」
言葉を遮るように、抱きしめられる。少し汗ばんだ手が背に触れ、腰に触れる。鼓動が、異なる二つの鼓動が重なる。
「好き、好き、好き好き好き好き。好きです、好きです雨宮先生、いや、白瀬さん。貴方のことが、好きです」
ああ、溶けてしまう感覚とは、こういうことを言うんだろうか。心の奥に溶け込んで、触って、撫でてくるその言葉が、気持ちいい。痺れるほどに求めてしまう。砂漠で得た水のように、口にすれば口にするほど欲しくなる。求めてしまう。
「あすっ」
「白瀬さん」
飛鳥が手を離す。それが嫌で、袖を掴もうとした。俺の頬に当てられる手。
「名前で、呼んでください。飛鳥じゃなくて、俺の、名前を」
そんな顔、卑怯、だ。
「ち、はる。
「はい」
「好き、になったんだ。お前が、俺に恋をさせたんだ」
「はい」
「責任を、取れ……! 俺はもう、お前に捨てられたら……死ぬ」
「捨てません」
鼻先が触れ合うほどの距離。千晴の目に俺が映る。きっと俺の目にも、千晴の姿が映っているのだろう。
「白瀬さん、こそ、逃げないでくださいよ……?」
「俺は……逃げない」
「約束ですからね」
ふにゃり、と。気の抜けたように笑う。それから千晴は、俺の頬に手を当てたまま動かない。少しの沈黙。何をしているのか問おうと口を開いた瞬間、奴の方が先に口を開いた。
「白瀬さん」
「なんだ」
「キスをして、よろしい、でしょう、か」
顔を真っ赤にして、今更、何を言う。さっき、酒の勢いでキスをして押し倒した奴のする顔じゃない。俺は何も言わず千晴の首に手を回し、思いっきり引き寄せながら後ろに倒れた。
「えっうわっ」
無言で、唇を重ねる。舌を差し入れ、奥に引っ込んだ千晴の舌に絡める。驚いたように見開かれる目を、間近で見れた。千晴はされるがままだったが、次第に慣れてきたのか遠慮がちにだが主導権を握りだす。
歯列をなぞり、口内を擦るその感覚。今まで夜を過ごしてきた男達のキスとは違う高揚感。それに含まれる、甘さ。視界が揺らぎ、とろけ、夢中になる。口の端から漏れる声は、自分でも驚くほどに甘かった。
唇を離す。驚いたような千晴の顔が面白くて、笑った。本当に久しぶりに、腹の底から笑った。
「白瀬さん」
「なんだ、千晴」
人を好きになることに、理由なんていらない。そして人を好きになることにも、制限はない。そりゃあ、不倫や浮気は駄目だ。一度愛したからには、責任を持たなくてはならない。
「好きです。付き合って、くれますか」
「俺で、よければ」
暦の上では、まだまだ秋。それなのに春が来た、そう思うのだ。
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