第3部 先生! 締切越えました!!

先生! 締切越えました!!(前編)




 結婚はできなくても、二人で暮らそう。君が好きだ。


 そう、言った男がいた。俺の手を取り、抱き締め、ベッドの上で甘く囁いた男がいた。当時の俺は純粋で、その言葉を信じて頷いた。


 あのお店で君を見て、感じたんだ。運命だよ。


 そうとも言ったか。今にして思えばそんな言葉、信じる方が馬鹿だった。

 そして結局、男は俺を捨てた。


 同僚に見られたんだ。ほら、俺達は世間一般じゃ肩身が狭いからさ。


 そんなことを言われても、何も言い返せなかった自分が情けない。男の言う運命は、世間一般とやらの目を気にするほどみみっちいものだったのか?


 またいい人探しなよ、君なら大丈夫だよ。


 そして俺は捨てられた。酷く、雨の降る夜だったのを覚えている。



 そんなことがあって、俺は恋を諦めた。





 ──十月某日、雨──



「──せ、先生、雨宮あまみや先生!」


 呼ばれる声で、目を覚ます。照明の明かりが眩しくて、思わず目を細めた。覗き込む飛鳥あすかの顔が間近にあって、思わず驚き意識が覚せいする。


「まーた突っ伏して寝てたんですか? 寝るならちゃんとベッド行ってくださいよ」


 やれやれと言いながら飛鳥は部屋を出る。カーテンをめくり窓の外を見ると、とっくに日が落ちていた。飛鳥が来るような時間。最後の記憶が昼過ぎだったから……結構寝ていた。体が痛い。

 リビングに向かう。夕飯の匂い。今夜は魚か。


「魚か?」

「あたりです。アラでお汁も作るのでもう少し待っててくださいね」


 この編集と出会ってから、早くも半年が来ようとしている。我ながら、意味がわからない。いきなり好きだ何だ、結婚してくれと言ってきた男を家に招き、家政婦まがいなことをさせているのだから。

 本当に、初めて出会った頃はこんな奴死ねばいいのにと思っていた。勝負を始める頃までは、そう思っていた。

 変わったのは、夏だ。こいつの実家に行った日。あの、夏祭りの夜。



 自分でもなんで、昔のことを話したのかわからない。気がつけば何故か話していた。あの夜の空気に、祭りの感じに流されていたのかもしれない。それを話して、それでもコイツは──俺を、受け入れた。

 俺は悪くないと、俺は、幸せになっていいと、言ってくれた。長年絡み付いた鎖が解けて、背負った重荷が軽くなる、気がした。


 気がした、そう、気がしただけ。


「そうだ、ポストに葉書来てたので、持ってきましたよ」

「……葉書?」


 机の上。新聞紙の下に葉書が挟まっている。めくった。送り主は、高校時代同じ弓道部に入っていた同級生。瑠璃川あたりに声をかけて、俺の住所を知ったのだろう。

 一体なんの用、とひっくり返し、息を呑んだ。結婚式の招待状。俺には一生、縁のない言葉。


 ──お前が幸せになんてなれるわけがない。

 ──お前のせいで私は不幸になった。

 ──お前さえいなければよかった。


 脳裏にチラつく母親の言葉。


 ──君のことが好きだよ。

 ──絶対誰よりも大事にする。いつか君と結婚したい。

 ──君は僕の運命だよ。


 ああ、あんな夢を見たからだろうか。古い男の顔が、現れては消えていく。それだけじゃない。数え切れないほどいる、一晩を過ごしただけの男達。それぞれの顔が、浮かんでは消えていく。

 結婚式という幸せ溢れるものを目の当たりにして、自分の醜さと直面した。お前にはこんな幸せは無理なんだ、と首を絞められる感覚。


 気分が悪い。吐きそうになる。寝不足だ、徹夜明けで、机で寝たから体調が悪いんだ。


「先生?」


 覗き込む飛鳥の顔で、はっとした。鍋を抱え、心配そうな顔でこちらを見ている。


「大丈夫ですか? 結構冷え込みますし、風邪引いてません?」

「……ああ、もしかしたら、少し」


 風邪、きっとそうだ。だからあんな夢を見て、こんな記憶がチラつくんだ。


「今からでもお粥作りましょうか?」

「いや、いい……」


 せっかく作ってくれたのだ。食おう。箸を取り、手を合わす。


「美味しいです? 味覚は、はっきりしてますか?」

「……ん」


 頷く。こいつの料理は、たしかに美味い。女所帯、妹二人の世話を焼く、そんな暮らしを送っていたからだろうか。


「よかったぁ!」


 笑う様はまるで大型犬のようだ。その様子が少し面白くて笑えてくる。


「あ、今笑いました?」

「……笑ってねぇ」

「笑いましたよね!?」

「……笑ってねえつってんだろ」


 こんな会話を続けることを、いつしか心地良いと感じていた。初対面のことは忘れて、ただこうして話せる友人として、側にいられたら。瑠璃川るりかわのように、友達として、過ごせたら。


「俺、先生の色んな顔、みたいです」


 その発言は、とてもタイミングが悪かった。

 寝落ちした際に見た嫌な夢。同級生の便りをきっかけに呼び起こされた母親の言葉。体調不良。しとしとと降る雨。最悪の状況で、何も知らない飛鳥は口にしてしまった。


「俺は、先生の運命の人ですからね!」


 眩しすぎる笑顔が、俺には駄目だった。


「そういえば先生、来月誕生日でしたよね。何か欲しいものとかありますか?」


 その問いかけが、どこか遠くから聞こえる。それに答えるより先に、俺は提案を述べた。


「おい、今夜空いてるか」

「はい?」


 もうヤケだ。原稿のこととか、後のこととか、そんなのはもう頭の隅にもない。


「飲むぞ」

「急ですね!?」


 酒の力で、全部忘れて寝てしまいたい。──後から思えば、それは本当に大失敗だったわけ、だが。






 ──同日、晴──



 先生の突然の思いつき。

 起こしたときから体調が悪そうだったし、ぼんやりしていたから止めようとしたのだが……静止するまもなく先生はどこからか酒を引っ張り出してきた。

 有無を言わさず酒を注いでくる。先生も飲んだ。


「先生、やめときましょうよ。体調も悪そうですし……」

「いいんだ、別に」


 止めても聞かない。どうしたのだろう、何かあったのだろうか。不安に思いながらも酒を飲む。ちびちび舐めるように飲む俺に対して、そこまで酒に強くない先生は躊躇なく飲んでいく。普段原稿明け、無理矢理寝るために飲むときのようだ。


「おい飛鳥」

「え、はい」


 酒が回ったのか、上気した顔で問うてくる。


「学生時代とか、今まで身の回りにゲイはいたか?」

「えっ? はい!?」


 思わず変な声が出た。何をいきなり!?


「教えろ。いなかった、とかわかんなかった、とかなら、そういうのをどう思ってたか聞かせろよ」

「なんですかいきなり! やっぱり酒やめときましょうよ。早く寝ましょう!」


 駄目だ、普段以上に悪酔いしている。このままじゃ良くない。しかし止めたところで止まらない。仕方なく息を付いた。


「高校の頃、いましたよ。ゲイのクラスメート。何がきっかけだったかはわからないんですけど、いつしか噂が広まってて、クラス全体がなんとなく察してました」


 先生はグラスを傾けつつ問いかける。


「そいつに関して、どう思ったんだ」

「どう思うも何も、普通に話してました。普通に声かけて、仲間同士で遊んだり。卒業してからは、連絡取ってませんけど」

「……そいつは、どうだった。お前達と遊んでる間」


 どうだった、と言われても。


「普通に笑って、楽しそうでしたよ。あくまで俺が思うぶんには」


 そう伝えると先生は、そうかと小さく呟いた。目を閉じ、追加の酒を注ぐ。止める前に一気に飲み干した。


「──────」

「え?」


 何かを言った。声が小さくて聞こえない。よく耳を澄ます。

 

「お前らノンケの、そういうところが大嫌いだ」


 その、今にも泣き出しそうな顔。先生のそんな顔を、俺は初めて見た。


「先生?」

「楽しそうだった? そんなわけ、あるか!!」


 いつにない大声。こんなに感情を剥き出しにした先生を見るのは初めてだ。


「そうやって、ノンケはすぐに『気にしない』っていう態度を取る! その優しさが、俺達を傷つけるんだ! 優しくされて、受け入れられると思って、自分の思いを口にすれば……拒絶される! 気持ち悪い、世間体、周りの目、あらゆる理由をつけて、俺達は迫害される! そいつだってきっと……苦しんだはずだ!」


 頭を抱え、俯く。行き場の無い手が、その上をさまよった。


「お前らは、本気にならない」


 弱々しい声。机の上にぽたり、と雫が落ちた。


「本当に好きなら、世間体も周りの目も、気にしねえ。そんなのかなぐり捨てて、自分だけを見てくれる。でも、それは叶わない。どうせ拒絶されるから、なんでもない風を装って過ごすしかない!」


 尻すぼみに声が弱々しく変わる。


「俺がおかしいのか……? 俺が間違ってるのか……?」


 自分自身に問いかけるような言葉。自分の身を守るように両腕を抱きしめる。一体何が先生を傷つけたのかわからない。でも、支えたい。手を伸ばす。しかし。


 俺が伸ばした手は振り払われた。一瞬、先生の手が俺の手を掠める。


「俺はただ……恋をしたい、だけなのに」


 俺は、何も言えなかった。夏祭りの日のように、抱き締めることができればよかったのに。ただ何も言えず、うなだれる先生の姿を見ることしかできなかった。


「帰ってくれ」


 先に沈黙を破ったのは先生だった。


「帰ってくれ!!」


 泣き出しそうな声。俺は唇を噛み締めて鞄を掴む。


「──ちゃんと、布団で寝てくださいね」


 そう言って俺は、扉を締めた。


 

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