29.相思相愛
満開の桜の下で、橘の無事を祈っていた。
ーー早く目が覚めますように。
目が覚めたら、何を言おう。お礼を言って、でももう私を庇って傷つかないでとお願いをして。
いやでも、何も言えなくなるかもしれないな。何でもいいから、彼が無事でいますように。
そう願っていると、橘が立っていた。
微笑んでいた。思いが込み上げて、傷に響かないようそっと抱きついた。
◇
抱きついてすぐ、正気に戻ってお互いパッと離れた。
思わず感情が昂ったけれども、恋人以外にやることではない。どんどん真っ赤になる頬を隠すように俯いた。
「……もう、目が覚めたのね……」
「……はい、おかげ様で……」
そっと橘の顔を盗み見ると、彼も照れたように頬を赤くし上を見ていた。
その様子にまた照れて、それ以上の言葉が出ない。
もじもじと気まずく指を動かしていると、頭上から声が降ってきた。
「……皇后にならないと聞きました」
「あ……うん。色々頑張ってもらったのにごめんなさい……」
怒るだろうか。
皇后にはならないと決めたものの、彼は桜がずっと皇后になりたいと言っていたから、桜を皇后にするために今まで頑張ってくれていた。
その努力を無駄にするような行動に、呆れ果てて愛想を尽かされても仕方ないだろうなと覚悟していた。
「……こんなことを言われたら、あなたは困ると思いますが」
皇后になってほしいと言われるだろうか。そう言われたらどうしよう。
橘の顔を見上げると、彼は真剣な表情で、口を開いた。
「ずっとあなたの事が好きでした。俺ではだめでしょうか」
ぽかんとする桜に、顔を真っ赤にした橘が矢継ぎ早に言葉を続ける。
「俺の妻になったら、馬も触り放題です」
「え?馬?」
「出世します。大きな屋敷を構えて、庭に桜の大木を植えます。春になったら、毎日寝転がれるように」
「あの」
「あなたの好きな果物も、毎日捧げます」
およそ十六歳の女性に向けた求婚とは思えない。
それでも彼は、真剣な顔をしていた。
「あなたの望みは何でも叶えます。だからどうか、俺の妻になってはもらえないでしょうか」
信じられない気持ちで彼の顔を見上げた。ずっとずっと言ってほしかった言葉が、今彼の唇から降りてきたのだ。
嬉しさが指先から心臓までぶわっと一気に駆け巡る。昂った感情に突き上げられて、桜は大きく頷いた。
「……本当に?」
彼が目を見開いて、桜の顔を覗き込む。もう一度頷いた。
「やった!」
彼は破顔し桜を抱きしめた。赤くなった耳が、桜の頰のすぐ近くにある。
「……馬がなくても、大きな屋敷がなくても、桜がなくても、果物がなくても、」
彼の耳に囁くように告げると、彼の体が跳ねるように強張った。
「橘のお嫁さんになりたい」
最後の声は掠れてしまった。
橘が息を呑んで、桜を強く抱きしめた。
◇
「花桜さま……いえ、桜さまと橘さまがご夫婦になるのですか」
目を丸くする蝋梅に、桜と橘が照れながら頷いた。
治癒の使いすぎで臥せっていた蝋梅は、一日寝込んですぐに回復した。それでもしばらくは力を使わず、体もゆっくり休めた方が良いとのことで、なかなかお礼を言いに行けずにいた。
今日お医者さまの許可が出て、一刻も早くお礼を言いに二人で来たのだった。
「おめでとうございます。お似合いですわ。これからは西園寺桜さまになるのですね」
西園寺桜。
苗字の破壊力に内心悶えながら、桜は頷いた。横を見れば橘も、照れに照れていた。驚いた。
弱点など何もないと言わんばかりの顔をしていた無表情の男が、照れている。
「蝋梅さまも……その、おめでとうございます」
そう言うと蝋梅は嬉しそうに笑った。
蝋梅は次期皇后に内定が決まったそうだ。
慈善での功績、桜や橘を癒した功績、それから花の儀で帝に物申した胆力が評価されたのだそうだった。
「ありがとうございます。間近であの方に仕えることができるなんて、本当に夢のようです」
ふんわり笑う蝋梅は、とても可愛らしかった。
「これで生涯最期の日まで、あの方を一人にすることなく、お仕えできます」
蝋梅の笑顔の裏の覚悟に少し、ドキリとした。
◇
長居しては体に障るということで、早めに蝋梅の宮を出た。
「お礼が言えてよかったですね」
いつもよりも緩んだ顔の橘に、頷いた。
橘の命を助けてくれた蝋梅に、ずっとお礼が言いたかったのだ。彼女は橘も、桜も、白萩も……桜の父が殺人を犯す道からも、救ってくれた。
お礼を言っても言い切れない。
「本当に、蝋梅さまがいてよかった」
しみじみとそう言えば、橘もそうですね、と神妙に頷いた。
「俺が助かったのも、蝋梅さまと花桜さまのお守りのおかげです」
全て蝋梅のおかげだろうと思ったが、口に出すのはやめておいた。
「それより橘。あなたはいつまで敬語なの」
「え?」
「私はもう皇后候補じゃなくて、あなたは私の夫になるのに」
口を尖らせてそう言えば、彼は一瞬口を開いて、また閉じて、顔を赤く染めた。
真面目に照れる橘に、桜はつい吹き出した。
「笑うな」
無理がある。顔を顰める橘にけらけら笑っていると、彼は怒ったように桜の髪をぐしゃぐしゃにした。
「ひどい!」
「男心を笑うほうがひどい」
「部屋に蛙をばらまく方がひどい!」
「いつの話を……大体あれは可愛いと思って……」
「可愛くないよ」
橘が頭を抱えて呻いた。
「あなたって感性が死んでるのね……。私は橘から好きって言ってもらえるだけで喜ぶのになあ」
桜は大好きだと何回も伝えてたのに、橘はたくさん可愛いと言ってくれるのに、好きだとは言わなかった。
それでも大切だと言ってくれるのが嬉しくて、顔を見るだけでも大喜びだったのだけど。
「私はあんなにたくさん伝えてたのになあ。蛙かあ」
髪をぐしゃぐしゃされたお返しに揶揄うと、赤い顔でむっつりしていた橘が、唇だけで笑った。
嫌な予感がする。
「……ほう。何を伝えてくださったのですか」
「え?だからそれは……言ったでしょう。わかるでしょう」
「俺は感性が死んでるので……。頓珍漢みたいですし、わかりません」
橘が仕返しとばかりに不敵に笑っている。見事に返り討ちにされた桜は、自分の顔がどんどん赤くなるのを感じた。
桜はもう子供ではない。簡単に好きと言えるような素直さは無くなっている。
「嘘ばっかり!」
「さあどうでしょう」
橘が意地悪く微笑んで、顔を隠そうとする桜の手を掴み、指先に唇を落とす。
「言ってください。何を伝えてくれていたのですか?」
楽しそうだ。
橘に意地悪をされたことのない桜は口をはくはくさせながら、悔しがりながら口を開いた。
「……あなたが、私に思ってくれていることよ」
「俺があなたに。……世界で一番、大好きだということでしょうか」
壮絶なほど色気のある笑みだ。頭がくらくらする。
「……そうよ」
顔を逸らすと優しく指で頬を抑え戻された。驚くほど近くに顔があって、桜が焦がれてやまない黒い瞳が優しく桜を見つめている。
これ以上無いほど幸せそうに、意地悪く。
「…口で言って。聞きたい」
囁くように言われて、吐息が頬にかかる。
話が違う。最初は、橘の贈り物の話だったはずなのに。
「……橘のことが好き」
恥ずかしさを堪えて言うと、橘が甘く幸せそうに微笑んだ。
「俺もです」
橘の顔が近づいて、桜は自然と目を閉じる。
かさついた橘の唇が、とてつもなく嬉しかった。
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