22.彼の幸せ

 



 最後の花の儀が目前に迫っている。

 桜の毎日は大して変わりがない。懐剣の使い方を練習し、気の早い芙蓉から立后の儀式の手順を学ぶ。変わったことといえばそれくらいだ。


 しかし宮中が日に日に慌ただしさを増していることは伝わってくる。宮中を歩く文官の姿が歩く屍のようだという話を聞いて、可哀想だなと心から同情した。


 その中でも帝は相変わらず毎日やってくる。一人で来ることもあるが、橘を伴うことが多い。帝一人の時は芙蓉のお許しが出ることはないが、橘と一緒の時は女官も護衛も監視も全て人払いをされる。


 人がいなくなると、帝は少しだけ気が緩んだ顔をして、三人で大して意味のないような世間話をしていた。


 この穏やかな時間が、桜はとても好きだ。


 それに帝が来てくれるおかげで橘と会えるのは嬉しかった。

 証拠不十分とは言え、犯人の可能性がある橘と桜は自由に会うことができない。そして花の儀が終われば桜はもう、おそらく二度と橘に会うことはないのだから。

 彼と過ごせる最後の、貴重な時間だった。



「……眠っていますね」

「そうね」


 今日も橘を伴ってやってきた帝は、珍しい事にうたた寝をしている。頬杖をついたまま規則正しい寝息を立てる彼を起こさないよう、小声でひそひそと話をした。


「お疲れなのでしょう。本当に今、宮中は大変ですから」


 次から次へと出てくる公家の不正に、あちこちで人手不足が深刻なようだ。


 橘の生家である西園寺家も、桜の生家である東一条家も不正は見られなかったが、南條三家は他国と内密にやり取りをしていたことが発覚して、何か良からぬ情報が流されていないかなど詳細な調査がされているそうだ。


 蝋梅の生家である北小路家は、貧民に施しを行っていたそうで、それが何かの法に抵触していたのだそうだ。ただこれは軽い注意のみで大したお咎めはなかったらしい。そもそも法律がおかしいなと帝が口に出して、脇に控えていた侍従が「法改正は全てが落ち着いてからにしてください」と青ざめていた。


「花の儀が延期になれば、この忙しさもマシになるでしょうに」

「きっと何かお考えがあるのでしょう」


 そう言いながらも、橘だって腑に落ちないという顔をしている。


「花の儀が終われば、すぐに立后の儀式です。それまではお忙しさが続くでしょうが、花桜さまも身の安全にはお気をつけくださいね」


 橘の言葉に頷くと、そう言えば帝は花の儀が終われば・・・・・・・・大丈夫だろう、というような事を言っていたなと思い出す。立后の儀式ではない。

 おそらく、最後の花の儀で何かしらの成果が出ると帝は確信しているのだ。同時に、きっとそれは桜の身が危険になる最後の機会でもある。


(私を庇おうとして、橘がまた何かひどい目に遭わなければいいのだけど……)


 しかし、試練の儀に臨む橘と桜との間には物理的に結構な距離がある。庇おうとしても庇える距離にはいないだろう。

 儀式の終わり、帝と姫君の前に四人の武士が並ぶ時間があるそうだが、まさか武士の精鋭である四人の近衛がいる場で、桜を狙おうとする者はいない筈だ。入退場の時が一番危ないのではないだろうか。


 そんなことを考えていると、橘の声が降ってきた。


「そう言えば先日、東一条家の奥方様が来られたと聞きましたが、大丈夫でしたか?」

「よく知ってるのね。あのね、何か心配してくれたみたいなの」

「奥方様が」


 橘が驚いて目を見開いた。


「後はお母様のお話をしてくれた。お母さまが今際の際にお義母さまに、私の事をお願いしてくださったのですって。お義母さまには酷い仕打ちかもしれないけど……私はお母様に望まれていたんだって知れて、嬉しかったのよ」


 思い出すと、少しだけ胸が温かくなる。

 その桜の顔を見た橘が、嬉しそうに微笑んだ。


「……よかったですね。皇后になったら、御母堂の御墓に報告しなければなりませんね」

「そうね。でも私のお母様は、私が尊い人に見染められることがないようにと仰ったそうなの。やっぱりお父様とのことがお嫌だったのでしょうね……。この血は高貴な方に見染められてはだめだからって。だから怒られてしまうかもしれないわ」

「……あなたが望んでいることなら、きっと大丈夫です。お喜びになられますよ」


 そう言いながら橘がやや考えこむ素振りを見せた。

 訝しんで尋ねようおとした時、さあっと風が吹いて視界に白いものがよぎった。開けていた窓から拭く風が、花びらを連れてきたのだ。


「まあ。桜」


 見ると桜の花びらだった。


 窓の近くに行くと、先日ほころび始めていた桜の木がもう開いて、今は五分咲きとなっている。


「蕾がほころんだらあっという間ね。すぐに満開になりそうだわ」

「そうですね。俺はこの世で一番桜が好きです」


 一瞬自分の事を言われたのかと、愚かにも心臓が鳴ったが、橘が自分のことを名前で呼ぶわけがなかった。平然を装い「綺麗よね」と呟く。


「私が住んでいた離れの前に、大きな桜の木があったことを覚えてる?春になると花びらが絨毯みたいになって、一緒に寝転んだら桜の木の合間に青空が見えて、すごく綺麗だったの」

「覚えていますよ。起き上がったらあなたの髪に花びらやら葉っぱやらがたくさんついて、取るのに難儀しました」

「そうそう。何で橘の髪にはあまりつかなかったんだろう?」

「よく覚えていますね」


 橘の目が優しく細められた。嬉しくなって「あなたとの思い出は全部覚えているわ」と答えると、彼は一瞬間を置いて「俺もです」と答えた。自分の方がもっと覚えているけれど、と内心思いつつも頷く。そんな桜を見て、彼が確かめるような口調で口を開いた。


「あなたは本当に、皇后になりたいですか」


 その瞳の真剣さに心臓がどきりと鳴って、気づかれないように目を逸らさず微笑んだ。


「もちろんよ。私がそのためにすごく頑張っているところを見てたでしょう?」

「はい、見ていました」

「だから応援して欲しいわ。掴みどころのないお方だけど、私はそんな帝が好きよ」

「……はい」


 少し表情が固い橘に不安を覚えたが、きっと自分はうまく言えたはずだ。「まあ大事な妹分がお嫁にいっちゃうのは寂しいでしょうけどね」と揶揄うように言うと、彼はようやく少しだけ表情を緩めた。


「そうですね。あなたは俺にとってこの世で一番大事なお姫さまですから」


 何か言おうとしたら涙が出そうな気がして、口は閉じたまま満足そうに微笑んだ。その桜に手を伸ばそうとした橘が、途中でやめて「どうかお幸せに」と微笑む。


「ありがとう。橘も世界一幸せな武士になれますように」


 何の憂いもない表情を作れた自分を褒めた。

 花の儀が終わって、どんな結末になったとしても、桜の願いは結局橘の幸せだった。





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