10.血の記憶
最近顔を出し始めていた春は、また隠れてしまったようだ。
空は薄暗い雲がどんよりと広がり、冷たく細い雨が朝からしとしとと降っている。雨の中に閉じ込められた日は、眠くなる。特に、眠りの浅い最近は。
「ーーそして、我々の体に流れる血には先祖の記憶が流れていると言う者が……。花桜様?」
橘の呼ぶ声にハッとする。驚いて顔を上げる。
「ご、ごめんなさい……」
「うたた寝など珍しい。お疲れでしょうか」
顔色も少しだけ悪いかもしれませんね、という橘の声は、妙に優しい。
そうだ。再会してからもこの人は、ずっと優しかった。優しいから、嫌だった。桜のことなど、目的のための駒としてしか見てないくせに。
なぜ彼は、幼い頃桜にあんなに優しくして、突き放したのだろう。この八年間ずっと考えて、いつしか考えることも止めてしまった疑問が胸に湧く。
憐れんで優しくしただけの少女に、分も弁えずに慕われたのが嫌だったのだろうか。仕置きのつもりだったのなら成功だ。あの世界がひっくり返った絶望は、今でも鮮明に覚えている。それどころか。
あれから八年も経ったのに、桜はまだ絶望の中にいる。裏返せば橘への執着心の現れのようにも思えて、桜はぞっとした。
そんな桜を見た橘が、心配そうな顔で口を開いた。
「花桜様が宮にいらしてから、俺も無理をさせてしまった自覚が有ります。今日はお休みにしましょう」
「……自覚があるとは思わなかったわ。根性を見せろと山のように宿題を出すんだもの」
「皇后になるなら多少のご無理はしてもらわないといけませんから。でもまさか、出す宿題を全てこなすとは思いませんでした。頑張っていらっしゃる。今日くらいはゆっくり休んでくださいね」
憎まれ口を聞く桜に向ける、柔和な微笑みが眩しくて目を伏せた。
「私は大丈夫。あなたの方が、無理をしているでしょう。手はどうしたの」
桜の言葉に橘が少し目を丸くして、「俺を気遣う余裕があるなら大丈夫ですね」と笑った。
「もうだいぶ良くなりましたよ」
そう言って見せる手のひらの傷は、確かにだいぶ良くなってきているようだ。膿んでいる様子もない。次の試練は馬だから、きっと手を悪化させることはないだろう、多分。
「それでは終わりにしますが、何かわからないところはありますか」
「うーん……それじゃあ、さっき言っていた、血の記憶って何?」
「我々の体に流れる血には、先祖の記憶が宿っているのではないかと考える説があるのです。赤ん坊が生まれてすぐに乳を飲むのも、誰にも教わっていないのに這い、立ち、歩き出すのも、全ては記憶が遺伝しているのではと」
「へえ……」
「親が食べて亡くなった毒キノコはけして食べない、という動物もいるそうです。生きていくのに必要な情報だけ引き継がれるというのは、あるかもしれませんね」
桜にはピンと来ない。今まで本能だからそういうもの、としか考えていなかった。
頭の良い人たちは、不思議なことを考えるものだ。それに何故、血なのだろう。そんな桜の考えを見透かすかのように、橘が苦笑した。
「大抵の学者は公家で、大抵の公家にとっては血とは大事なものですからね」
「……あなたもその公家じゃない」
他人事のように言う橘に、一瞬湧き上がった怒りが口をついて出てきた。ハッとして慌てて口を噤んだが、桜の強い口調に橘が驚いている。
「やはりどこか、体調でも」
「何でもない。それより、その血の記憶とやらだけど、前世の記憶とかではないの?生まれ変わりとか」
「生まれ変わり、ですか」
橘がやや面食らったような顔をする。話を変えたくて少し突拍子もないことを言ってしまったが、血の記憶とやらと五十歩百歩だ。生まれ変わりは、あったらいいなと思うけど。
その時、低く涼やかな声が聞こえた。
「魂は、強い未練を残した者だけが生まれ変わる。殆どの人は生まれ変わらないんじゃないかなと私は思うよ」
帝だった。橘と桜はもちろん、図書寮にいる他の者もひどく驚いて見つめている。当然だ。普通帝がこんな風にふらりと出歩くことは、あまりない。
その上、連れている供は一人だけだ。何か小さな木箱を持っている。その供も引き攣った顔をしているところを見ると、制止も聞かずにやってきたのだろう。
慌てて礼をしようとした桜と橘を、良い、と言って止め、自分もその場に座った。
「お前たちはいつも図書寮で勉強していた筈だな、と思ってな。遊びにきた。何を勉強していたんだ」
「今は雑談をしておりました。諸説ある血の記憶という物と、前世について……」
「興味深いな。私も混ぜてくれ。私のことは友人だとでも思って、忌憚なく語り合おう」
無茶振りだと桜は思ったが、橘は涼しい顔で帝に尋ねる。
「生まれ変わりを信じておられるのですか」
「そうだ。そして生まれ変わらずとも魂の片鱗はその血の記憶とやらに流れているんじゃないかと僕は思う」
「それは……面白いですね。何故そう思われるのですか」
「勘だ」
帝の勘は当たりそうだ。だけど帝の話が本当だとしたら、帝の体の中には歴代の帝の魂の片鱗が流れているのだ。怖い。
若干腰が引けている桜に帝が優しく笑った。
「私の妻になったら、そんなに固くなってばかりもいられないぞ」
その言葉に一瞬固まって、不敬にもまじまじと帝の顔を見る。整った顔立ちが桜を真っ直ぐに見つめていて、桜は息を呑んだ。橘が鋭く凛々しい顔立ちであるのに比べ、帝は甘く整った顔立ちをしている。
固まった桜を面白そうに眺めて、帝はまた違う話をし始めた。しばらくそのまま話していると、脇で死にそうな顔で控えていた帝の供が、「そろそろ……」と小声で帝に話しかけた。帝は、あ、時間か、と言って立ち上がる。そうして桜に、供が持っていた木箱を手渡した。
「先日急に花見に押しかけてしまったからな。姫君方へ詫びの印だ」
そう言ってふっと笑うと、彼はサッと軽い身のこなしで去っていった。嵐のようなお方だ。
橘と桜が手元の木箱を見つめる。重くはない。
「……何かしら。開けてみるわ」
桜が木箱の蓋を開けると、桜と橘は同時にハッと息を呑んだ。
剥き出しの刃が鋭く光る、懐剣が入っていた。
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