09.憧れた人
試練にお誂え向きの晴天だった。
暑いくらいの春の陽気だ。日差しが強く降り注ぎ、身につけた
花の儀は、かつて花の女神が降りたったと伝えられる地で行われる。
今日の試練は弓だ。的が用意され、四人の近衛が一斉に矢を射る。点数制だ。的の真中ーー正鵠が一番点数が高く、端に行けば行くほど点数が低くなる。
三度矢を射る。合計点が一番高い者が勝者となる。
既に会場には大勢の人が集まっていた。桜が入場すると、大波のような歓声が胸に体にびりびりと届き、内心面食らう。こんなに大量の人間を見るのは初めてだ。
席には既に他の姫君たちが座っていた。端の席の桜の隣は白萩だ。桔梗でなくて、ややほっとする。
席に座ると、控えている近衛たちがよく見えた。
(……なんだ、普通そう)
先日、あの惨い手の傷と、ここ暫くのどこか不安定な様子の橘が少しだけ心配だった。けれど今日の彼は落ち着いている。いつも通りの無表情で、余裕とまではいかないものの緊張している様子はない。
彼は静かに佇んでいる。佇む彼はまるで森の奥の泉のようだ。澄んでいるのに底が見えない。
じっと眺めていると視線を感じたのか、橘がこちらを見た。桜は一瞬逡巡して、微笑を浮かべて頷いた。頑張って、と言うように。
驚いたような橘が困ったような、嬉しそうな顔を浮かべた。そこに桔梗の近衛である茲親が、何か話しかけたようだ。
「橘様は弓の名手なんでしょう。楽しみですね」
白萩が話しかけてきた。若紫にーー水面だろうか、波紋が描かれた珍しい柄の十二単を身につけている。彼女の言葉に驚いて、桜は彼女の言葉を繰り返した。
「弓の名手、ですか?」
「ええ、ご存知ありませんでしたか?弓だけでなく、馬も剣術も素晴らしい腕前をお持ちと聞いておりますわ。公家でありながらよくあそこまでの腕前をと、私の近衛の忠政が感心しておりました」
知らなかった。名手と言われても尚、手が擦りむけるまで練習していたのか。
公家として生きれば安定して暮らせただろうに、彼は何を目指しているのだろう。そうまでして、武士にこだわる理由とは。
「もしかしたら、前世で武士だったのかもしれませんわね。魂が、動きを覚えているのかも」
驚いて顔を上げる桜に、白萩がたおやかに微笑んだ。
「前世」
「ええ。花桜様が花の女神の生まれ変わりと噂されているのはご存知ですか?先ほど花桜様がいらした途端、歓声が凄かったでしょう。もしかしたら花桜様は本当に花の女神の生まれ変わりで、橘様は前世で花桜様の武士だったかもしれませんわ」
「そんな、畏れ多いことです」
「多くの方が思っていることですわ。そうすると、黒龍も生まれ変わっているかもしれませんわね」
困惑した桜に白萩がごめんなさい、と眉を下げた。
「わたくしは少々夢みがちなところがありまして……。父にもいつも注意されてしまいますのよ。表に出すものではないと。あ、始まりますね」
そう言って白萩が前を向き、桜も一列に並ぶ近衛たちーー橘を見た。
矢を構える橘の背筋はすっと伸びている。凛々しい横顔は的だけを見据え、今まさに引かれてギリギリと悲鳴をあげる弓と比例して、集中力が高められているのが傍目にもわかった。
合図の赤い旗がはためき、ほぼ同時に風を切り裂く音がした。
一斉に放たれた矢は、全員が的に当たる。そして正鵠を射ったのは、橘一人。しかし彼は笑わない。無表情のその顔は、試練が終わるまでは緩むことがないのだろう。
二本目が終わり、三本目が放たれた。
「ーー勝者、西園寺橘」
武官が告げた勝利と同時に、轟くような歓声が上がる。
三本全てを的の真中、正鵠に当てた近衛は彼一人だった。
やり遂げた彼は桜のほうを見て、恥じらうような得意げな笑顔を見せる。
見たことがある。あの顔は、幼い頃によく彼が見せてくれたものだった。
熱い塊が喉元に込み上げる。必死に飲み下して、微笑んだ。
(橘だ)
幼い頃、大好きでたまらなかった、あの橘がそこにいた。
「まあ、すごい」
横の白萩が感嘆し、声も出ない桜が頷こうとした時、帝が立ち上がった。
すぐに橘たち近衛が跪く。
「皆素晴らしい腕前だった。特に西園寺。三本全て正鵠を射るとは。女神の祝福を受けた、かの伝説の武士を彷彿とさせる」
「身に余るお言葉でございます」
「花桜、良いものを見せたそなたの近衛に労いを」
急に名前を呼ばれて桜は驚いた。
労いとは。どうすれば良いのだ。
困惑する桜に、帝を前に引き締められていた橘の口元が微かに弧を描く。
帝に深く一礼し、桜の前に歩み寄った。
「ーー花桜さまに、忠誠を捧げます。この身は生涯、あなた様のために」
そうして座ったままの桜の前に跪き、花びらのように広がる朱鷺色の着物の裾を手に取り唇をつける。
わっと、今までで一番大きい歓声が上がった。まっすぐに桜を見据える橘の目に強い意志を垣間見て、桜はああそうか、と納得をした。
(ーー橘は私を、本当に皇后にする気なんだ)
わかってはいた。
わかってはいたことだ。
けれど改めて感じた彼の本気に、桜は言葉を失った。
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