7. 煩悩
自宅に戻ってすぐ、補習の用意をしている最中、着信音が聞こえた。
携帯電話を見ると、
『
そう言えば、時間まだ教えてもらってないや…。
「はい…」
『ごめんっ!』
開口一番、謝る
「いや、今帰って来たところなので…」
思わず、正直に話してしまった…。
『朝帰り、か…?』
やっぱり、指摘された…。
「何時からですか…?」
『どこに行っていたんだ…?』
中越先生の問いには答えずには、今日の補習の時間は教えてもらえないのか…。
「ハルのところですよ。弟の…」
そう答えると、
『そうか…』
妙に納得された…。
『俺の都合で申し訳ないけど、今日は
「了解です」
あれ?
確か
『では、また…』
そう言って、電話は切れた…。
「まぁ、いいか…」
どうでもいいや。
再び、用意をし始めていると、また着信音が鳴る。
メールだから、後で見ればいいかと用意を続けていると電話の着信音が鳴り始めた。
携帯電話を見ると、
『ハル』
「はい…」
何かあったのかな…。
『ねえちゃん…』
甘えた声で、
『昨日は、ごめんなさい…』
でも、その言葉とは裏腹に聞こえるのは気のせいだろうか…。
「うん…」
『これからもよろしくお願い致しますっ』
吹っ切れたのかな…。
ある意味、この切り替えが今の仕事に活きているならばよしとしよう…。
「こちらこそ…」
でも、微妙に上がっているテンションの高さに何とも言えないひっかかりがある…。
『仲直り、だね…』
ハルの少し笑った顔が思い浮かんで、
「そうだね…」
私も少し笑った。
『ねえちゃん、大好きっ』
電話越しにリップ音が聞こえた。
『だから、こなつから好きだって言ってもらえる男になるよ…』
それは一生ないよ。
言わないけど…。言わない代わりに、乾いた笑いで返事した。
『鼻で笑うなんて、ヒドいぃ』
でも、不機嫌になることなく、今日のハルはゴキゲンだな…。
『じゃあ、明日オフだから会いに行くよ』
「え…?」
間抜けな返事をして、
『いや、今日の夜から行こうかな…』
ハルの行動力を軌道修正しようと考えるけど、
「こ、来なくていいよっ」
『行くもんっ』
これはもう来る勢いだな…。
「ハルの部屋、掃除してないよ…」
昔使っていたハルの部屋は、いつ帰って来てもいいように何も置いてないのだが、掃除は前回ハルが帰って来た時以来していない…。それに、客用の布団を干さないと…。
『じゃあ、一緒に寝よ…?』
「全力でお掃除しますっ」
電話越しで笑いながら、
『ねえちゃん、冗談だよ…』
「冗談に聞こえません…」
昨日の今日、だもん…。
『少しは意識してくれてるんだね…』
貞操の危機の意識だけはしている。
「ハルは大切な弟だからね…」
じゃあ、切るよ。と言って、切ろうとしたら、
『うん。おやすみなさい…』
おやすみなさい…?
もう電話は切れてしまったが、何となくハルの機嫌が良かった意味がわかった…。
今度から、消臭剤持参で行こう…。
「さて、やるか…」
まだ、後数十分の猶予がある…。
約束の十時に、ギリギリ…。
「アウトッ」
野球の審判員のように、アウトのサインをした中越先生に、
「弟が早くて今日の夜に来るって…」
言い訳をしながら、席に座る。
「そうだね。こなつの弟くんのおかげで色々あったよ…」
そう言えば、拓斗くんがいない…。
「大口は、十時半からって事前に連絡があって…」
「ハルが何か…」
「いや、ハルは関係ない」
5分遅刻だから、とブツブツ言って何やらペナルティの作成をしている…。
「単なる遅刻だってさ…」
ニコニコしながら、
「ハルが関係あるのは、補習の時間…」
出来た。と言って、私の机に差し出した用紙には、「ハルが補習の時間に絡んでいた件について。中越先生が言ったことをまとめよ。(メモ書き可)」
最早、数学ではない…。
「拓斗が来る前に、こなつに言っておくよ…」
はい、始め。と言って、中越先生は腕時計のボタンを押す。
「ハルから「こなつと拓斗は一緒に補習しないでくれ。もし一緒にするなら俺、そっちに転入するから…」と連絡があって、事前にハルの仕事量を教えてもらったんだが、仮に転入したところで留年は確実になるから転入はするなと返事したら、「仕事はこれを機にやめる。あと1年、待って」なんて言われちゃって、冗談かなって思ったら、ハルの所属している事務所のお偉いさんが来て、「ハルは貴重な人材だから何とか説得してくれ」と言われて、ハルに何を言えば一番響くかなぁ。って俺なりに考えた結果、中途半端に終わっていいのか。そんなんじゃこなつは振り向かねぇぞ。と説得したといういきさつがありまして…」
な、長い…。
単語だらけの紙を見て、溜め息が出てしまった…。
「なので、今日俺は焦ってこなつに連絡を取った。そして、朝帰りのこなつを知ってしまうことになる…。お兄ちゃんは複雑な気持ちです…」
うなだれる中越先生は、
「以上、まとめて提出してください…」
あと3分。と言って、
「
「はい…」
書けば書くほど、ハルがいろんなヒトに迷惑をかけていたと思えば思うほど…これは反省文なのかと思った…。確かに遅刻したからこの課題は合っているのかも…。
「ちゃんと先生のことも書いてくださいねぇ…」
まとめ終えた文章を読み返して、中越先生のことは出て来るので、首を傾げて、
「中越先生のことも書いてありますよ…?」
「そう…?」
用紙を見て、
「庄野、素晴らしい…」
中越先生は、目を潤ませて、
「この調子で、数学やっちまおうぜ」
「おぅっ」
そうして、本題の数学に取り掛かると、廊下を歩く音が徐々に近付いて聞こえる…。
「そろそろ来た、かな…」
「そうですね…」
そして、扉がガラッと開いた。
「遅れました。すみません…」
「事前に連絡があればいいんだよ」
い、痛い…。
胸を抑えながら、
「こなつちゃん、どうしたの…?」
「ううん…」
この差って、やっぱり連絡ですか?
「庄野も遅刻したからね…」
連絡なしで。と、解いていた問題を消された。
「合ってますよっ」
もうっ!
中越先生に何したっていうんですかっ!
………無断遅刻、か。
「こなつ、数学スキル戻って来たなっ」
「は、はい…」
中越先生が嬉しそうに言うから、許す…。
「おめでとう…」
拓斗くんは微笑んで、私の隣に座る。
筆記用具を取り出す姿を見ていたら、
「あ…」
拓斗くんの右腕には、うっすらとひっかき傷があって…。
まさか…。
「ハルじゃないからな」
先に答えてくれたので、安堵した。
「ただ、ハルは助けた」
「助けた…?」
「助けた…?」
同調して言った中越先生は、
「喧嘩か…?」
不安そうに聞きながら、私の問題を見てくれている…。先生っぽいなぁ…。いや、先生だけど…。
違う。と拓斗くんは首を横に軽く動かして、
「熱狂的なファンから助けただけだよ…」
それって、笑えない話じゃないのに笑いながら話す…。
「よくあることだから、俺も…」
拓斗くんの当たり前の日常は、私の日常とはかけ離れ過ぎていて、その優しく微笑む姿に距離を感じた…。
「そう…」
どこか上の空で課題をしていたせいか、いつもなら解ける問題も書き間違えてばかり…。
「庄野、そんなに俺に会いたいのかな…?」
笑顔を、
「いえ、週1回で充分ですっ」
笑顔で返し、
「俺は毎日だって会いたいぞぉ」
この間違えっぷりだとな…。と低い声で、
「集中しろ…」
顔を上げた中越先生の顔は、笑っている…。怖い…。
「辰己お兄ちゃん、怖いぃ…」
オネエ口調の拓斗くんと、
「辰己お兄ちゃんって、学校では言わないでちょうだいっ」
オネエ口調で返す中越先生を見て、
「仲良しさんだね…」
微笑ましく見つめる私に、
「当たり前じゃん…」
拓斗くんは微笑んで、
「幼馴染みだからな…」
中越先生は私の頭を撫でて、
「それは、庄野も一緒だからな…」
優しく言葉をかけるそのしぐさに、
「あ、ありがとうございます…」
いかん。いかん…。
彼のおかげで、死にかけたんだから…。
「ただいまっ」
皆の前でも、相変わらず激しい抱擁に、
「いつまでたっても、こなつちゃんから離れられないのね…」
まりえさんは呆れて、
「こんなハルはファンには見せられないな…」
同じく辰己お兄ちゃんも呆れている…。
「ハル、こなつから離れろ…」
辰己お兄ちゃんは服を脱ぎながら、隣の部屋へと移動した。
「嫌だっ」
そんなこと言うから、もっと離れなくなったじゃないか…。
「ねえちゃんは、俺のなのっ」
ほら…。
独占欲全開のハルに、皆が呆れてしまっている…。
「はぁ…」
溜め息とともに、巳鶴くんの方を見る…。
『ハルは相変わらずだな…』
い、いる…。
巳鶴くんが、呆れながら笑っている…。
「ねえちゃん…?」
茫然としていた私の目の前を、ハルの心配そうな顔が映る。
「大丈夫…?」
うん。と頷いて、
「巳鶴くんがいるの…」
いる場所を指差して、
「ハルは相変わらずだな…って言ってるよ」
そう言うと、ハルはもっとギュッと抱きしめて、
「ねえちゃんは渡さないからなっ」
威嚇の顔が可愛過ぎるハルに、笑いが込み上げる。
「もう巳鶴くんはいないんだよ…」
そういうところもひっくるめて相変わらずのハルは、
「うん。知ってる…」
私の胸に顔を埋めて、
「ねえちゃんがいつまでも巳鶴のこと引き摺ってるから出て来るんじゃないの…?」
私だけに聞こえるように囁いて、
「忘れちゃダメだけど、前に進まなきゃ…」
囁く度に、胸元にハルの唇が触れるので、声が出そうになるのを必死に堪える…。
「うん…」
離れたいが、こんな話はハルにだけしか出来ないから…。我慢…。我慢…。
「だから、俺のこともうちょっと意識してよ…」
ハルは、見た目は可愛いけどブレない強さがあって、私はそんなハルのことが…。
「それは無理…」
大好き…。
もちろん、恋愛感情の好きではない「好き」だけど。
「ねえちゃん、ブレなさ過ぎっ」
「ハルも、だよっ」
久々に、心から笑った気がした…。
『こなつ、バイバイ…』
耳元近くで聞こえた巳鶴くんの声に、
「ま…」
待って。と言いたかったけど、声が詰まって言えなかった…。
「ねえちゃん…?」
私の顔を覗き込むハルの表情が、滲んで見えない…。
「本当に、大丈夫…?」
私の頬を撫でるハルに、
「大丈夫だよ…」
と、ハルの手を退けて、顔を伏せて答えた…。
「うん。大丈夫…」
大丈夫なんかじゃない…。
でも、ハルの言う通り、前に進まなきゃ…。
『巳鶴くん、バイバイ…』
そう心の中で呟いた言葉に、
『うん。こなつはもう大丈夫だ…』
巳鶴くんが返事してくれて、思わず顔を上げたら、
「ハル、こなつに何したんだ…?」
着替え終えた辰己お兄ちゃんが、ハルが私を泣かせたと勘違いしているようで、
「ち、違う…」
ハルは何もしてないよ…。
「俺、何もしてないよっ」
「何もしてなかったら、泣かないだろうがっ」
二人が言い合っている中、巳鶴くんがいた場所に目をやると、もうそこにはいつもの写真立てがいっぱいある場所に戻っていた…。
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