蛍の記憶

桜餅ケーキ

忘れても……


 外灯も何もない田舎の田んぼ道。


 静かな虫の声だけが聞こえる、静かな場所。


 一人の年老いた男が、暗闇に光る淡い蛍の光を眺めていた。。


 何もせず、何も喋ろうともせず、ただ、静かに蛍を眺めている。


 蛍を見る、男の息遣いは弱々しく、杖が無ければ、もう、立っていることも出来ない。

 それは、誰しもが辿ることになる、終わりが近づいていることを、男に教えていた。


 男がシワの刻まれた手を、ゆっくりと蛍に向けて伸ばした時……


「――こんばんは……お一人ですか?」


 一人の年老いた女が、男に優しく声をかけた。


「あぁ、こんばんは」


 男は女に挨拶を返すと、伸ばしかけていた腕を静かにゆっくりと下ろした。


「……蛍……私も見ていいですか?」


 女は蛍を見つめ続ける男に対してそう尋ねた。


 男は何も答えなかったが、女は慣れたように男の隣に腰掛ける。


 そして、男の土まみれの杖と足を見て、呆れたように薄く頬を緩めていた。


「……一つ、お尋ねしてもいいですか?」

「……あぁ……なんだい?」


 男は女の方を見ようともせず、蛍を見ながら、返事をした。


「――何で、こんなところで、蛍を見ていたのですか?」


 女はそう、男に質問する。

 

 女の質問に、男は微笑みながら。


「それは――すまんが、言えんな。アンタが、アレと知り合いだったら、台無しだ」


 嬉しそうにそう答える、男の言葉には敵意や悪意などは全くなく、むしろ、こぼれそうな程の情愛の熱を感じられた。


「――そうですか……では、少し、私の夫の愚痴を聞いてもらってもいいですか?」


 女の問いかけに男はただ、あぁとだけ答える。


 ゆっくりと頷く男の横顔を見たあと、女は懐かしそうに、自らの夫の愚痴を話し始めた。


「……私の夫はとっても馬鹿な人なんです」

 

 女の声には微塵も相手を卑下するような感情が込められていない。


「私が桜が綺麗だ、と言えば、次の日には、どこから持ってきたのか、たくさんの桜の枝を庭に埋め始めたり」


 二人の上をゆっくりと星空が回っている。


「私が、花火が綺麗だといえば、ひどく腫れ上がった酷い顔で、花火師さんを家に連れてきたり」


 女の話を聞いているのか、いないのか、男はただ静かに蛍を見ている。


「……私が、蛍が綺麗、と言えば――たくさんの蛍が住む場所を見つけてきて、その場所で嫁になってくれ、なんて言われたんですよ。……ほんと……馬鹿な人なんです」


 話を終えた女に、男は嬉しそうに言った。


「――あんたの旦那は、いい男だよ。なんせ、俺がやろうと思ってた事を、先にやっちまったんだからなぁ。俺と同じくらい、いい男さ」


 蛍を見ながら、心底悔しそうに男はそう口にした。


「……そうですか……ふふっ……そうですか……いい男、ですか」


 そう、口にしながら、女は困ったように笑う。


「……なぁ……あんた……俺の蛍と一緒に挑む、大勝負、上手くいくと思うかい?」


 女にそう尋ねる男は重たくなっていくまぶたを持ち上げながら、蛍を見つめ続けている。

 

「――さぁ、それは私には分かりません。でも……」


 女は、目の前に広がる蛍の光を見ると――


「――少なくとも――ここに、あなたのような馬鹿な男に惚れてしまった、馬鹿な女がいますので、きっと、上手くいきますよ……」


 ――とても、嬉しそうに笑うのだった。



 男と女を、照らすように、蛍の光が淡く光り続けている。

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