第4話 緑
【人類にとって完璧な世界は存在しない。人が〝神〟という名の〝信じるモノ〟を持つ以上、それが形成されることはない。だが、世界にとって完璧な世界は存在し得る。それは人類のいない世界だ】
僕は勢いのままに壁の手前にある岩に飛び乗るように左脚をかけた。次は助走の推力を上方向にうまく変換させつつ壁に向かってジャンプする。左手で壁の天辺である縁を掴んだ。助走とジャンプの推力をそのままに、左腕に力を込めて、上体を持ち上げる。腕を起点に体を捻り、うまく縁に腰をかけたのもつかの間、すぐさま両脚でその場に立った。
太陽はまだ見えない。それでも、青い空と青い海の境界線を見ることができた。境界線から上下に青のグラデーションが世界を彩っている。その水平線は、見渡す限り一直線だ。そして見渡すという行為にとって、障害となるものは存在しなかった。
どうやら僕が流れ着いた場所は島だったらしい。しかも、見える距離には他に陸が存在しない〝孤島〟というヤツのようだ。
目視で確認したワケではないが、島の周囲は断崖絶壁のようだ。自分の足元から放射状に続いている大地は、一定の距離で忽然と姿を消している。
僕の左後ろには、最初に見上げた〝穴〟がある。こうして上から〝穴〟として見れば、驚くほど巨大な縦穴だ。
僕の立つこの場所が、島への本来の上陸だと定義するならば、あの飛び越えた谷の存在を横に置いたとして、上陸の手段は、海中にある(と思われる)トンネルを抜け、あの〝穴の底の浜〟から裂け目を通って来なければならない(つまり僕が通って来たルート)可能性が高い。
ここが孤島である可能性や、容易に上陸できない場所である可能性は、当初から少なからず頭の中にあった。それが現実であると認識させられたとして、特別なショックを受けることもなかったが、今、実際に目にしている風景には、ショックに近い衝撃を受けている。
何もない。表現としては〝草原〟でいいだろうか?足首ぐらいまで隠れてしまう丈の草が一面を覆っていることが全てだ。当然、人為的な建造物などなければ、山どころか隆起もない。ついでに木の一本すら立っていない。ただひたすらに、緑の絨毯が広がっているだけだ。
この島が円形だとするならば、僕は今、その中心辺りに立っている。周囲の断崖絶壁に沿って歩いたワケではないのだから、もしかしたら、見えないだけで上陸の容易い浜があるのかもしれない。もしかしたら、この島そのものは見えている以上に広く、ここがその島で最も高い場所なのかもしれない。だが、今この場を支配している雰囲気は、この島がそうではないという信号をずっと発している。見えているものが全てだと僕に囁いてくるようだ。おおよそ直径で数キロしかなく、一か所だけ、直径200mほどの大穴が開いている。そして、周辺を絶壁に囲まれた島。これが僕の流れ着いた大地の全てだ。
しばらくは、ただ茫然とした。最も思考を停止させた事実は、食料及び、水の確保ができないということだ。現状でそれらが確保できる可能性はここではなく、最初の浜以外に無いことになる。〝少なくとも水が確保できるあそこに戻る必要がある〟と結論づける他ないのだろうか?と、頭の中で繰り返し自問するが、その答えを得ようと、頭が回転することはなかった。
ただ水平線が綺麗だと思った。それを見続けているうちに、ふいに彼女の顔を思い出す。彼女は実に美しい人だ。美しい、綺麗の種類が異なるが、そのレベルは、今見ている水平線と遜色ない。そう、彼女の美しさは、メイクなどを必要としない自然な美しさだった。
彼女がどれほどに優秀であったとしても、もちろん、悩むことや落ち込むこともあった。そういうタイミングであっても、基本的な性格は常にポジティブ。思い立ったら即行動ができる決断力を有する。早い話、彼女に接した男性が、彼女に好意を抱かない理由がない人物だということだ。
そんな彼女を妻に持つ僕は、果報者以外の何者でもないだろう。彼女を知る僕の友人や、彼女を知る人物から、いい意味でからかわれたものだ。
僕はそんな誰もが好意を寄せる彼女を、何よりも優先する。その彼女は僕と一緒に生きることを望んだ。だから僕は彼女のもとへ帰る。それが現状を打破する目的であり、原動力だった。だが、今の僕はそれを見失いつつある。
いつの間にか、足元の草の色がはっきりと緑だと認識できる程度に明るくなっている。自分自身に「諦めるワケにはいかない」と言い聞かせながら、辺りを歩き回る。今はどんな小さなことでもいい。〝風が吹けば桶屋が儲かる〟レベルでのこじつけであったとしてもかまわない。草に隠れて見えない〝何か〟があると信じて、視線を足元に落とし、島をくまなく彷徨い続けた。
ここには、本当に何もなかった。一先ず、上空から見たときに〝SOS〟に見えるように、草を引き倒して形作った。そして僕は、その〝O〟の真ん中に座っている。
SOSを作る時間がそうさせたのか、今の僕はひどく冷静だ。物書きである僕は、あらゆる可能性を検討する癖がある(彼女に言わせれば、それは職業病ではなく、単純に僕の癖らしいが)。僕はこれまでに起こった事実の検証を開始した。
まず最初は、船の上だ。あの場所で検証や仮説が必要なものは1つしかない。〝白〟だ。
そもそも、あの白は自然現象でないことは明白だ。だからと言って、人類の科学が生み出したモノでもないだろう。その正体について、僕も彼女も、互いに確認したワケではないが、1つの〝同じ〟仮説を立てていた。はっきり言えば、その後の展開が怒涛過ぎて、この仮説のことを忘れていた。そしてこの仮説は、ある意味、この島で実証してきたのかもしれない。
重要なコトは1点。〝白〟の正体が〝人工物〟でも〝自然物〟でもないという仮説だ。
次に検証が必要なのは、僕が目覚めた場所についてだろう。目覚めて最初に目にしたものは、正に雲1つ無い青空だった。だが、本来ならば違う〝青〟で一度意識を取り戻していなければおかしい。そうでなければ、意識のないまま、溺死していたと考えるべきだろう。
あの浜にたどり着くには、僕が海に落下した以上、海を通らなければたどり着かない。そして、浜と外海を隔てていた壁の厚さに関わらず、僕は一度、海中に沈む必要がある。もちろん、ここまで来た裂け目のようなルートを発見したときのように、海側にも同じような裂け目があり、それが浜からは裂け目があると認識できない景観だった可能性は捨てきれないが、浜に存在する海岸線に〝波〟が存在しなかったことから、表面上の海流は発生していないと考えられる。もしもそうした裂け目が存在するのなら、小さいながらも海流が表面にあったハズだ。
これらを総合的に考えれば、やはり海中に存在する穴から、僕はあの浜に流れ着いたと考える方が可能性は高い。となれば、息苦しさから意識を取り戻し、海中の深い青を目にしていて不思議はないのだが、僕にその記憶はない。もちろん、まったくの無意識で浜に漂着する可能性は0ではないが、それが起こるのは検証の世界にない。きっと世界はソレを〝奇跡〟と表現するハズだからだ。
かなり飛躍的な考え方ではあるが、1つの可能性の話として、海面を漂う僕を誰かが偶然にも発見し、ヘリコプターか何かで引き上げたとしよう。他にもあの船から落水した人をすでに救助していたとして、僕を機内に入れることが出来なかったとしたなら、そしてこの島の上空に達したとき、偶然にも牽引ロープの巻取り箇所に不具合が発生。その結果、僕は浜に向かって急降下したものの、ロープの全長が足りなかったか、ロープを巻き取っているドラムの回転が、これまた偶然にも止まったかで、僕は地表に叩きつけられずに済み、その後、僕の体だけ、浜に落下したというシナリオならば、海中を通らずとも、目覚めたときの状況が出来上がる・・・が、コレにどれほどの現実性があるだろうか?
いずれにせよ、ここで重要となってくることは、僕があの浜にたどり着ける理由のいずれも、かなり高いリスクが伴っているという事実だ。
その次に検証が必要なのは、あの〝黒い谷〟だ。文字でもその違いは明らかだが、〝闇〟と〝黒〟は性質の違うものだ。闇は〝音〟を閉じ込めてしまうように表記されている。閉じ込めたからといっても、確実にそこに音は存在する。対して、黒に音は存在しない。
そもそも、黒は闇の表現の1つに過ぎないし、逆の表現をされることもある。黒い物質をまるで〝漆黒の闇〟のようだとはよく聞く表現だ。黒く塗りつぶされたような闇。確かにあの谷に存在していた闇は、その表現に当てはまる。だが、闇である以上、そこに音は存在しなければならない。
僕が落下させた石は何にもぶつかることなく落下した。一般的に何にもぶつからないという〝表現〟はできるが、それは正確ではない。それが正確に当てはまる状況、つまり、何にもぶつからないことが〝成立〟するのは、宇宙空間以外にない。
地球上には空気が存在する。空気とは、酸素や窒素、二酸化炭素といった元素であり、広義では物質だ。そして、音というものはモノと物が接触することで発生する空間の振動だ。落下する石と、広義でいう空気という物質が絶え間なく接触することで、その2つは音を発生させる。本来の仕組みは複雑だが、簡単に言えば、よく漫画などで見かける「ヒュー」という文字で表現されているアレだ。もちろんここは現実であり、音を視認することはできないが、僕の耳は背後から飛んでくる消しゴムの風切り音を検知することができる。にもかかわらず、落下する石と空気が接触した音が、僕の耳に到達することはなかった。
僕はあの闇を〝ベンタブラック〟と揶揄した。それは光を99.965%吸収するが、あの谷には音を超高効率で吸収する未知の物質でも存在しているのだろうか?もしそうだとしても、〝未知〟である以上、検証に対して有効とはならない。
もう一つ。あの谷に底が存在する確証がない。底が土であれ、砂であれ、水であれ、到達すれば確実に石はソレと接触する。接触したのならば、必ず音は発生する。ところが、僕がそれを耳にすることは無かった。
落下音は別として、その高低差が想像を絶するほどであったなら、底と石の接触音が僕の耳に届く前に掻き消えた可能性はあるが、その場合、僕が石を離した位置から浜までの高低差よりもはるかに高い高低差が必要だ。僕は高低の〝高〟に位置していたのだから、高低の距離を延ばす方向は下に向かうしかない。
この島が海洋のどこに位置しているのかは判らないが、それこそ世界最大の海溝であるマリアナ海溝に位置していて、谷は海底付近にまで到達していれば、その谷の存在は成立する。ちなみにマリアナ海溝は、水面下10,983mと言われている。可能性として、航路から付近を航行していたとは思うが、島に存在する穴なり、谷なりが、海溝の底にまで達しているなどと、聞いたことが無い。
この2つを総合して考えた場合、重要なのは、有り得ない条件を満たしてしまう谷は実在しているが、果たしてどうやって出来たのか?ということだ。
そして次で最後だ。そもそも、こんな形状の島が実在できるのか?
世界に断崖絶壁はもちろん存在する。それらが形成された条件が、島の周囲すべてで成立すれば、〝周囲を断崖絶壁で囲まれた島〟は出来上がる。これは可能性としてOKだ。奇跡と呼ばなければならないような確率の低さではないだろう。
問題は、今僕が目にしている〝緑の草原〟だ。見る限り、この大地に広がる草は1種類しかないように思える。草が細長く、簡単に引き抜けなかったことから、ハマスゲではないかと思っている。
このハマスゲ、芝生によく生えていたりするが、いわゆる雑草であり、放置すると地中で形成された球根が数珠繋がりに増えるため、除草作業が難航する厄介な草だ。
これが直径数キロの円形大地に、一面生い茂っていることになる。飛んできた鳥か何かが、その最初の1つをこの島に持込み、それが増殖したのだろうか?そうだとするなら、ハマスゲ以外の植物がこの島に存在しない以上、ここはもともと、草木一本たりとも自生していない土地だったことになる。
可能性としては、有り得る。事実、この植物だけがここにある。植物である以上、養分が必要だろうが、それは雨以外にあり得ない。植物に限らず、生命に水は不可欠だ。
このハマスゲという植物、お互いで養分の奪い合いとはならないのだろうか?球根そのものが繋がるのだから、最大でこの島全体を覆うハマスゲが、全てで1つの植物だとでも言うのだろうか?仮にそうであったとしても、まったく同じ単色、それもパソコンなどで見かけるRGBカラーの数値が1たりとも違わない緑一色で全ての草が色づくことなどあり得るのだろうか?僕の目にはそう見えている。
水分と養分で気付いた。もう1つ追加だ。
人間は生命体だ。一般的に、人が飲まず食わずで生きられる時間は72時間、つまり3日間だと言われている。これは、生命を維持できる期間であって、十分に動くことが可能な時間ではない。さて、ここで問題。僕はこの島にたどり着いてからどれぐらいの時間が経過しているでしょうか?目覚めてからの時間ではない。それならば24時間も経っていないだろう。しかし、海に落下してからだとしたらどうだろう?あれは夜に差し掛かったころの時間だった。であれば、最短でも夜が2度、明けている。現時点までで、僕は下の浜で見つけた水源で少しばかりの水を含んだだけだ。そしてここに来るまでにそれなりの体力を消費している。
今の僕は疲労感を感じていない。感覚がマヒしているのだと言われればそれまでだが、これが通常でないことは理解している。
これまでの考察で重要と言ってきた〝謎〟は1つの結論を導き出す。それは、船の上で〝白〟を目にしたとき、僕と彼女が思い至った正体に帰結する。
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