第3話 黒

【もし〝神〟という存在が実在するのならば、その正体は〝時間〟である。時間だけは何者にも影響を受けず、その存在は永遠なのだから】


 目標地点は砂浜からそれほど距離の無い海側だった。砂浜と海の境目かと思っていたのだが、実際には海側の壁にそれはあった。もしかしたら、わずかの時間の間に潮が満ちたのかもしれない。

 まるでそこが入口だと言わんばかりに、岩の足場がある。広さにして半畳ほどだろうか。足場から上5メートルほどはただの壁だが、壁に存在する裂け目は、そこから上に向かって真っすぐに伸びている。よほど近付くまで、そこに裂け目があると認識できないほどに錯覚を引き起こすその存在は、トリックアートだと言って差し支えない。

 5メートルほどの壁を登ることは、そう難しいことではなさそうだ。比較的、壁面の凹凸が多く存在している。万が一途中で落下したとしても、着地の衝撃で脚が痺れる程度で済みそうだ。むしろ、問題はその先。裂け目がどこまで続いているのかだ。

 僕の身長は179センチ。ちなみに体重は62キロ。おおざっぱな計算にしたとしても、3メートルの差は裂け目の奥を素直には見せてくれない。見える限りではだが、どうやら裂け目はすぐにカーブしているらしい。あまりに錯覚間が強いせいで、僕の脳は、裂け目の形状を正確に認識することができないようだ。

 このルートを選択すべきだ。その先がどうなっているのかは未知数だが、可能性は・・・ある。何らかの力で裂け目が出来たのだとして、その幅が狭まるような箇所、四肢を突っ張ることができるほどの狭い箇所でもあればラッキーだ。幸いにも、ここは運動能力が試されるようなテレビ番組のセットではなく、自然が作り出した壁なのだから、登る瞬間のみ突っ張る力を加え、後は凹凸を利用して四肢を休ませることも可能だろう。

 そう言えば、そのテレビ番組の最後は、わずかな時間の間に、徐々に広がる壁を、四肢の突っ張りだけで登り切るというものだったと記憶している。もちろん、クリアした人物は存在するし、その壁に凹凸は存在していなかった。

 何より、この選択が間違いであった場合に必要となるリスクが、他に考え付くルートと比較して低いと考えられる。つまり、スタート地点に戻りやすいということだ。


 5メートルほどのクライミングは比較的体力消耗が少なく済んだ。初めに軽くジャンプして距離を稼いだことで、実際のクライミング距離は2メートル程度で済んだ。次の足場となる裂け目の底に手がかかりさえすれば、体を引き上げることはそれほど苦もない。

 暗い。その裂け目は幅にして3メートルもないだろうか。裂け目の底で立ち上がって奥へ視線を向けると、やはり急激に左へカーブしているように見える。地質や岩には詳しくないが、裂け目とは直線で発生するものではないのか?それとも・・・まさか人為的に生成された〝道〟・・・と考えるのは都合が良すぎるか。

 見える限りでの足元は、整備されていると言える様子はない。一般的な道と比べて歩きにくいであろうことは当たり前だが、それでも、思った以上に歩きやすそうだ。

 このルートを進むことでいいだろうが、1つ課題がある。せっかく飲み水を確保したというのに、それを持ち運ぶ手段がない。実は期待していたのだが、竹があればベストだった。

 竹は思いのほか生息地が広い植物だが、ヨーロッパや北アメリカには自生していない。その分布から言えば、船の航路は日本を出発してシンガポールの方へ向かっていたのだから、流れ着いたこの場所に自生していたとしても不思議はない。

 そもそも流れ着いた穴の底には、植物という存在そのものが無かったのだから仕方ないが、この裂け目を通るルートが僕を穴の上へ導いたとして、果たしてそこに竹が自生していたとして、現時点では飲み水が確保できるのは下の浜だけだ。それを得るためには、今から進むこの道を往復しなければならないが、このルートが僕の往復を容易く認めてくれるのかどうかは未知数だ。

 このルートを進むにあたって、過酷さが未知数である以上、飲み水を持ち運びたいところではあったが、飲み水は一旦諦める他ないようだ。

 このルートの性格は、進んでみないことには理解できないワケだし、上手く目的地に着いたとして、そこがどんな場所なのかは着いてのお楽しみだ。海に落ちたが助かったことで、僕の運が使い果たされていないのであれば、そして僕が運に見捨てられていないのであれば、すんなりとはいかないであろうこのルート踏破を乗り越えた先に、事態を解決する方法が見いだせる可能性は十分にある。僕は裂け目の奥に向かって一歩を踏み出した。


 これも錯覚のせいだろうか?見えていた(と思っていた)以上に勾配がきつい。そこまで歩きにくくないと見えていた道そのものも、見える以上の歪みがある。おまけに、陽はすでに沈んだと考えていいほどに空は変色している。不用意に歩けば足を捻りかねない。とは言え、ここは両側に壁がある道だ。両足に加え、壁面を手で伝うことで、3点で体を支えることができる。リスクは幾分か低下しそうだ。

 現状ではこのルートの先は、暗さも手伝って見えない。道中で夜を迎えるのは確実だが、可能であれば、休息は昇り切った所で取りたい。この道中で休息を余儀なくされると、果たして体がしっかりと休息を取れるのか疑問だ。布団がなければ、枕が無ければ眠れないといった類ではないが、岩や大きめの石がゴロゴロするような場所では眠りたくない。

 速度は決して速くないが、進むにつれて勾配が予想以上に傾斜を強めている。その反面、勾配具合からみて、登りきるまでの距離としては、それほど遠くはなさそうだ。

 上空の様子からすれば、もう陽は沈んだだろうか。春先であることを考えれば、日本で言うところの6時~7時といったところか?普段から腕時計を着用する僕だが、今の僕の腕にそれは無い。乗船後直ぐに彼女に取り上げられた。

「ここでそんなモノは必要ないよ?時間に縛られないことも、この旅の醍醐味なんだから」

彼女はそう言っていた。

 ここが日本からある程度離れた場所だということは確かだろう。船は南下し、おそらく赤道を超えて南半球入りしているだろう。時間そのものに日本との時差はそれほどないはずだ。

 空の色が見上げる度に暗さを増しているように感じる。道の両側を高い壁で遮られていることも手伝っているだろう。すでに表現上は〝夜〟と呼ばれる時間帯に突入したと考えていいだろう。

 驚いたことに、空は青さを残したままだ。ちょうど新月の夜のような明るさがある・・・そう、〝明るさ〟があるのだ。この谷と月の位置では、僕の居る場所から月を視認することは出来ていない。

 実は僕の今居る場所は、人が住む場所に近いのかもしれない。夜空に星が見えない。星が見えにくい原因の1つは、街の明かりだ。だが、〝見えにくい〟のであって、〝見えない〟のではない。僕は何か認識違いをしているのだろうか?

 僕はこの場所を島だと勝手に思っていた。人の生み出す明かりが少ない場所だと考えていた。そういう場所だから、今まで目にしてきた星空よりも、はるかに綺麗な星空が、それこそ満天の星空が拝めるんじゃないかと、少なからず期待していた。

 それが見えない。これは月が想像以上に明るいせいなのだろうか?それともやはり・・・いやいや、ヘンに期待するのは、外れたときのダメージが大きい。労せず、人間とコンタクトが取れるとは思わない方が懸命だろう。でないと、ある一方で期待通りの結果(水や食料)が得られ、違う一方では最悪な結果(孤島)が訪れた場合、僕は〝年〟という単位で、ここで生き延びなければならないという現実があったとき、心が折れてしまう。


 空は薄っすらとした青さのままだ。でも僕の目の前に現れたコレは・・・本来なら〝闇〟と表現するのが適切だろうが、〝黒〟と表現したくなるような裂け目だ。その幅は、絶望するようなものではないにしても、一足飛びできるようなモノでもない。

 こういう場所、場面に遭遇した場合、お約束的行動が1つある。僕は手近にあった拳大の石を拾った。立ったままその石を谷に放り込もうとしたが、すんでのところで思いとどまる。

 いくら風が無い場所だとは言え、谷の縁ギリギリに立つのは腰が引ける。相手は深さの底が知れない怪物だ。用心に越したことは無い。僕は怪物の口を覗き込むように寝そべり、石を握った左手をできるだけ遠くに伸ばした。もちろん、左手なのは無意識だ。何せ、僕は左利きなのだから。

 石を保持していた5本の指を一斉に開く。石は壁面に接触することもなく、まっすぐに闇に飲まれていった。いや、石の存在を視認できていたのはほんの一瞬でしかなく、あっという間に黒に染まったと言っていい。

「ベンタブラックかよ・・・」

ベンタブラックとはカーボンナノチューブから構成される、可視光の最大99.965%を吸収する物質のことだ。これの塗料が売られていたが、それを塗ったものは凹凸感まで消え失せ、人の目を混乱させる。ある美術館で、その塗料でただ丸く塗りつぶされた床が展示されているのを見たことがあるが、そこに穴がある(実際には無い)と認識することしかできなかった。

 僕の手から離れた石は、まるでその塗料を吹き付けられたかのように、瞬時にその存在を隠してしまった。だが、本題はそこではない。僕のこの行動の目的は〝音〟にある。石の落下音でこの谷の深さを知り、底がどうなっているのかを予測する。そのために、より音を拾えるように、僕は寝そべり、頭を谷に差し出していたのだ。

 落下する石と空気の抵抗により発生するかすかな音が聞こえる。僕は聴力が人より秀でている。その原因は、僕の右目が怪我によって視力をほとんど失ったことに起因する。無事な方の左目を閉じてしまえば、僕が認識できる世界は光と影だけになってしまうほどだ。しかしそうなってから以降、僕は音を聞く能力が研ぎ澄まされていった。今では誰も気付かないような小さな音でも、意識すれば聞くことができる。極めつけは、音によって移動する物の位置や速度、方向をある程度知ることができる。

 どれだけそこで待っても、次の音は聞こえてこなかった。それほどに深い谷なのか?それとも、音の伝達を阻害する何かが、この谷の底と僕の間にあるのだろうか?まさか、落下させた石がまだ底に到達していないなんてことはないだろう。これはもう、万が一にでも落ちれば、助かるとか助からないを議論する必要がないということだ。

 さて、そうなるとここでまた1つ、決断する項目が生まれたことになる。この谷が隔てる向こう側へ行くことは・・・おそらく可能だ。だが、それにはリスクが伴う。もちろん、僕もさっきの石同様に、黒に染め上げられてしまうことがリスクなワケだが、そうなる原因であるこの谷を往復することは避けたい。つまり、1か0か。行くか、行かないか。そして、1を選ぶのであれば、それは最初に目覚めたあの砂浜を完全に捨てることを意味している。

 決断の前に、今考えついている向こう側への渡り方を検証してみよう。どれだけ助走を付けようが、僕が走り幅跳びの世界記録保持者だったとしても、飛び越えることは不可能だ。当然ながら、橋のように渡せるものもない。ここを超えるには、ジャンプが2回必要となる。そのためには、どこかに足場が必要なのだが、それがあるとすれば当然、左右で切れ間なく続いている壁だ。

 僕の高い運動神経を支えている要因に〝ボディバランス〟と〝足腰〟がある。それを育ててくれたのは、〝スノーボード〟だった。実際のところ、小学3年生で初挑戦となったスノーボードは、高校生になるころにはオーストリアを拠点とするエクストリームチームに所属するレベルに達していた。映画やTV、CMの撮影にスタントとして呼ばれることも多かった。このスノーボードに関しては、僕が自慢できる数少ない特技だ。

「すごいとは思うけど、やりたいとは思わないわね・・・と言うか、バカの集団にしか見えないわよ、コレ・・・」

僕が所属していたチームのエクストリームムービーを見た彼女の感想がコレだ。僕としても、正直言ってその感想には賛成だ。

 そのチームにはドクターが所属していた。そのドクターは僕の筋肉を〝しなやか〟だと表現していた。ある意味、これから僕がやろうとしていることは、その特徴を最大限に活かすことで達成出来る。

 特に確証があるわけではないが、この谷を超えなければ、その先はないだろうという予感がある。海中トンネルを抜けるという選択肢を残したままではあるが、そこを見つけることができたとして、意識を持ったまま自力でそこを潜り抜けるには酸素が圧倒的に足りないと考えている。

 普通に考えれば、波は浜に向かって打ち寄せる。当然、海には海流というものが存在する。見える範囲は岸と壁に囲まれ、外海と隔離しているように見える海だが、海中は別だろう。特に、そこにトンネルがあるのだとしたら、その長さによって違いはあるのだろうが、その穴を通る海流がどう動いているのかは検討もつかない。事実として、僕は生きたまま内部の浜へ流れ着いたのだから、そこの海流は外から内へ流れていると考えるべきである。つまり、流れに逆らって泳がなくてはならない。

 もう一つの懸念は、トンネルの長さだ。見たわけではないから、断言できるものではないが、それなりの距離があると考えるべきだ。そもそも、海側で外海と浜を隔てている壁も相当な高さがある。これを支える海中部分が薄いものだとは考えにくい。むしろ、自重を支えるため、下に向かって壁の幅が広がっていても不思議ではない。

 ついでに言えば、当初から懸念があったように、仮にうまく向こう側へ出られたとして、そこがどうなっているのかがまるで解らない。最悪の場合、出たが最後、力尽きるまで立ち泳ぎをする羽目になる。もしくは、都合よくサメか何かが向こう側で僕を待っているかだ。そんなものはどちらもゴメンである。

 と、言うことで、僕はこの谷を飛び越えるつもりだ。方法はただ1つ。1度目のジャンプで左斜め方向に飛び出し、向かって左側の壁の凹凸を利用して、2度目のジャンプを実行する。これで飛距離としては届く。問題点としては、2度目のジャンプ時、壁面の凹凸が衝撃に耐えられるかどうかだ。まずは2度目のジャンプの足場に該当する凹凸を探す必要がある。

 左側の壁と定めたのは、単純に僕が左利きだからだ。それに、左右の壁を見比べたとき、左側の方がより明るいと感じた。月の位置がそうさせているのだろうが、相変わらず、僕の目にそれは映っていない。

 僕は壁にぴったりと左頬をくっつけるかのように、目標地点と成り得そうな凹凸を探した。できれば、凹よりも凸の方がありがたいが、耐久力から言えば凹の方が確実だろう。理想は、凸は凸でも、飛び出しているような箇所ではなく、そもそも壁面に段差があるようなイメージの箇所だ。

 幸運なことに、それはほどなく見つかった。前後の位置も、谷の中央付近だ。今立っている場所よりは、わずかに上に位置している。ついでに対岸となる場所との高低差はほぼ無いように見える。コレなら行ける。他に必要なモノは、僕自身の度胸だけだ。僕は谷に背を向け、距離を取るように歩き始めた。


 振り返った僕は、谷との距離を目で追った。ここまで意識していなかったが、僕の体はしっとりと汗ばんでいた。夜になってからも、それなりの気温がある。寒さはまったく感じない。考えてみれば、ここまでずっと、足場の悪い坂道を登ってきたのだから、汗ばんで当たり前か。航路から考えれば、ここは日本よりも赤道に近いのだろう。

 まずは呼吸を整えた。ここまで動いていてこう言うのも何だが、四肢の状態にも問題はないようだ。最後に残る課題は、踏切位置の調整ができないことだ。今立っているこのスタートラインを超え、それがどこかは良くわからないが、自分を制動できるラインを通過してしまえば、もう、待ったはない。

 今までエクストリームで散々危険なコトをしてきてはいるが、やる前に〝死〟を意識したコトはこれまでなかった。基本的に全てスノーボードだが、列車に牽引されたときも、谷を利用してヘリコプターの上を飛び越えたときも、滑走よりも落下に近い場所を滑ったときも、〝恐怖〟は僕の中に存在していなかった。だが、今は明確にその存在を自分の内側に感じている。

 恐怖の正体は解っている。黒と認識してしまうほどの谷底だ。底があるのかと疑ってしまうほどの谷底。それを実際に目にし、耳で聴いたその場所を、スノーボードのような板もなければスピードも得られずに飛び越える。しかも、途中で一度壁を蹴り、飛距離を伸ばすことが絶対条件。何かがほんの少しズレるだけで、僕も、あの時僕の手から離れた石のように、一瞬で黒く塗りつぶされることになるだろう。

 「さて・・・行きますか」

誰に言うとでもなく、僕は左足を無意識に引いた。これも僕の、走り出したりするときの癖らしい。視線は、さっき見つけた足場のあるであろう辺りを注視している。当たり前だが、谷から距離を取った時点で、見つけ出していた足場の正確な位置は見失っていた。ただおおよその位置は解る。となれば、助走の間にもう一度あの足場を見つけつつ、踏切位置と自身の歩幅を合わせる必要がある。

 決して簡単な話ではないが、スノーボードでも似たようなことをしてきた。しかも、スノーボードならば、決断や判断といった瞬時に下すタイミングが次々とやって来る。言うまでもなく、自分の脚で走る速度と、スノーボードで滑走する速さで比べれば、自分の脚で走る時の方が、時間的余裕が生まれる。それは、判断までの時間に余裕があるということだ。僕は迷いも躊躇いもその場にそっと置き、助走の一歩目を始めた。

 徐々に助走速度が上がる。それらしき足場を確認した。それがさっき見たモノと同一のモノなのかどうかは、この際どうでもいい。あとは踏切位置を間違えないことに集中する。わずかに歩幅を狭め、脚の回転が速くなる。〝コレで行ける〟と決めた瞬間、再び視線を足場に移す。

 こういうとき、自分が世界の時間の流れから孤立し、僕の周りを流れる時間がスローモーションのようになると思っていた。ところが、気付いたときにはすでに、僕の体は完全に中空にあった。今、僕は空気以外のものに体が触れていない。はっきり言って、自分で踏み切った記憶も無かった。

 足場はすぐ目の前にあった。自分の体幹をコントロールできる抜群の位置だ。僕は左足をわずかに前に出し、足場に乗せた。そして瞬間的に、わずかに膝を曲げ、2度目のジャンプのために〝溜め〟を作った。身体の進もうとするベクトルが、前方から徐々に下に向かって下がり始めるのが解った。これが下がりきってしまえば、再び飛び上がることはできない。僕は左足に神経を集中させた。

 再び宙に飛び出すために、向こう側(現在地点ではすでに向こうではないが)にたどり着くために、左脚の筋力を最大限に使って、すすむべきベクトルをもう一度上方へ向かわせる。時計で言えば、前方が3だとして、4あたりに差し掛かった針を瞬間的に2にする感じだ。すでに視線は目標地点にのみ注がれている。

 瞬間的に左脚が伸びた。それは僕が意図したものではなかった。僕の〝跳ぶ〟という力に、足場が堪えきれなかった。見えてはいないが足場だった場所が粉々になる様を感じる。

 そこからの僕を動かしたのは無意識だった。足場が崩れたことを理解するよりも早く、上半身を左側に捻る。身体が壁面と対面する。捻りの勢いを保持したまま、右脚をどことも判らない壁に付けると同時に、右手の平を壁に吸い付かせた。そして体を捻った力を利用し、今度は左半身を開きにかかる。丁度、壁に背中を向けて、両手の平、脚の裏を壁に付けているような格好になる。もしかしたらアメコミのヒーロー映画で見たことのあるポーズだったかもしれない。

 自分の体が壁を軸に横回転したような動きだった。眼下に広がるベンタブラックに吸い込まれそうになるのを必死に堪える。視界の左端では、一回転したことで向こう側の地面に急激に近付いていた。そしてそのまま、左脚で壁を蹴った。僕の体は再び宙に飛び出した。

 回転したことで、前に進むベクトルが急速に失われたようだ。せめて壁から45度ぐらいの角度で左前方に飛び出せればベストだったが、そこまでの角度は得れなかった。僕の体が沈み始めるのが解った。

 それでも、回転によって稼いだ距離が上回った。満足に着地することはできなかったが、ヘッドスライディングするように、さっきまで向こう側だと認識していた場所にたどり着いた。結果だけを見れば、楽勝ではなかったが、よほどギリギリという感じでもない。僕は谷を飛び越えた。


 あの谷を飛び越えるところを誰かが見ていたとするならば、アクション映画のワンシーンだと表現したかもしれない。もう一度やれと言われても・・・いや、映画の撮影としてするのならば、安全面への配慮がある分、やれるかもしれない。でも、だからと言って、この場所で繰り返すだけの度胸はない。

 これで後戻りすることは出来なくなった。もとよりそのつもりではあったが、このまま裂け目を進むことにする。幸い、どこかを擦りむいたというようなこともなく、体に痛みも感じない。このルートが果たして、穴から見上げた大地であろう場所に達しているのか確証はないが、体を休めるのは裂け目を出てからの方がいいだろう。アドレナリンのせいかもしれないが、不思議と疲れも感じていない。ただ一つ願うのは、コレと同等以上の難所が頂上までに無い事だ。

 谷を越えてから随分と登った。壁側を見上げれば、ジャンプすればもう少しで手が頂上にかかりそうなところまで来ている。だが、道は依然続いている。無理せず頂上に上がれるような高低差になるまでは、このまま進むことにする。

 さらに少し進んだところで、前方の様子に変化が見えた。これまでは〝坂〟だと認識していた道先だったが、今、目にするそれは、〝壁〟だと認識するように見える。おそらく、実際に壁のようになっているのだろう。つまり、裂け目のスタート地点、僕にっとてのゴールにたどり着いたことになる。

 もう少し進んでから、軽く助走を付ければ、それほど苦も無く頂上に体を乗せることができるだろう。おあつらえ向きに壁の手前には、軽く飛ぶだけで上に乗れそうな大きさの岩がある。

 気が付けば、それまでよりもずいぶんと空が明るい。もうそんなにも時間がたったのかと驚くが、夜が明け始めているようだ。僕は小走りになり、やがて、しっかりとした助走に変わった。

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