第2話 青
【人の手で作られた私にその資格があるのかは解らない。だが神よ、もしもそれが許されるのであれば、人類に一握の希望を】
死。その概念で正しいのかどうか疑わしいと、その瞬間は思った。ところが、僕はどうやら生きているらしい。ゆっくりと目を開けると、真っ青な空が見えた。幸いなことに、何かの影に入っているらしく、太陽を直視することはなかった。
まだ起き上がる気にはなれないが、何が起こったのか、はっきりと思い出せる。何なら、物心ついたころからの記憶を辿ることもできそうだ。
身体に意識を向けてみるが、激しく痛むような箇所もない。外傷はなさそうだ。では動かすことは可能だろうか?足の先から1つずつ、各関節を慎重に動かしていく・・・うん、問題はなさそうだ。腕で体を支えながら上半身を起こし、とりあえず周囲を一瞥してみる。
「なんだここ・・・」
今座している場所は砂浜と形容していいだろう。目の前にあるのはおそらく、海だ。では背後や左右はというと、砂しかない。漫画に出てくるような砂の孤島のように聞こえるかもしれないが、それよりも遥かに奇妙だ。
もしもそうした小さな、本当に小さな孤島だったとするならば、僕は直射日光を受けていたはずだ。今僕の目に映っているものは4つしかない。自分を中心に広がっているようにさえ感じる砂と、それと同程度の面積はあるであろう海。そして見上げれば空。残りはもっとも奇妙な、周囲を完全に取り囲んでいる〝壁〟だ。まるで丸い型抜きで刳り貫かれた場所のようだ。その直径は200メートルほどだろうか。
まずは水を確保したい。水が無ければ、人間は3日と生きられない。
目の前に水分があるにはあるが、僕は船から海に落ちたのだから、海を流されてここにたどり着いたと考えるのが自然だ。この場所の形状だけを考えれば、ここが陥没などによって発生した場所で、目の前にあるのは地下水だったと考えることもできるが、この場所に僕がいる事実が、そうではないことを告げている。
それでも確認は必要だろう。ゆっくりと立上る。若干フラつきはしたものの、ゆっくりと海だと思われる水の方へ歩く。どこにも痛みや違和感は感じない。身体的には問題が無さそうだ。
わずかに水面が揺れ動いているが、いわゆる〝波〟はない。パっと見たところ、水辺の向こう側に聳え立つ壁に、隙間などは無いように見える。
僕は左手を水に浸し、指先に残る水分を舐めてみた。わずかに塩分を感じる。どうやら海水で間違いないようだ。だとすれば、僕は海流によってここへ運ばれたことになるが、それはそれで辻褄が合わない。
僕は人間(だよな?)である以上、生命維持に呼吸が必要だ。周囲を壁に囲まれた場所へ流れ着くには、そこへ向かう海流が必要であり、波が必要であり、何より、囲いに隙間が必要だ。あの壁の海中部分に穴があり、この砂浜へ海中から海水を運んでいることは考えられるが、僕は魚ではない(ハズ)。意識でもあれば、一時的に呼吸を止めて潜ることが可能だが、無意識でそんな芸当は不可能だろう。どれほどの偶然が重なればそうなる?それはもう、〝偶然〟と呼ぶべきではない。〝奇跡〟に分類する方が妥当だ。
ひとまず、この水が〝海水〟であることの事実は掴んだ。他に解っている事実は、僕が五体満足で生きていること。ここへたどり着いた真実は後回しでいい。他の事実の確認が優先であり、水の確保が必須だ。
太陽に照らされている壁面の様子は、見てある程度解るが、陰になっている箇所の壁、とりわけ、下の方は暗さのせいか状態を理解するには至らない。
おそらく、水を確保できる可能性があるとしたら、それは壁からだ。
ここの地形はさっきも確認したように、まるで刳り貫いたかのようだ。実際にこの形状を作ることが可能だと推測できる現象は、
1、人が意図的に造った。
2,もともと空洞があり、地盤が崩落して縦穴になった。
3.長い年月をかけ、雨水がこの地形を作った。
1だとすれば、その目的が不明だ。リゾート的に使えるかもしれないが、いずれにせよ、人が造ったのであれば、そこには必ず〝目的〟がある。だが、この場所へ来るための手段がないのだ。自然的な牢獄ということも可能性としてはある・・・か?。
3に関しては偶然の確立が奇跡に近い。ピンポイントでここだけを侵食する雨などは降るわけがない。例えば上に森があり、振った雨が幹や葉を伝い、一か所に集中して地面を穿ったと、可能性としては考えられるが、それこそ神の御業だろう。
もっとも可能性が高いのは2だ。もともと空洞が内部にあった。これ自体はそれほど珍しいことではない。原因が何なのかは解らないが、その空洞からすれば天井が崩落した。実際に世界にはこうした縦穴はある。アメリカのテキサスにある「悪魔の陥没穴」やベネズエラの「サリサリニャーマ」、オマーンにある縦穴は底に水が溜まっていて、スイミングスポットになっている場所さえある。
これらの原因は、元から存在した空洞であることが多いのだが、なぜ空洞があるのかがポイントだ。それだけが原因ではないだろうが、地中が空洞化する原因の1つに〝地下水〟が挙げられる。その流れが地中を削り、やがて貯水される。その流量が減少、もしくは抜けたりが発端と成り、空洞が形成される。その後、雨などにより地盤が緩み、崩落することで縦穴が形成される。
〝地下水〟が大きなポイントだ。これが枯渇したのでなければ、この周囲を囲む壁のどこかから、少量だったとしても、それは流れ出ているはずだ。本来なら、それが源流となり、川となるところだろうが、ここは砂地だ。流れ落ちた水は吸収され、地表を流れることなく、海水と合流しているのでないだろうか。この雨を基にする水と海水が混ざり合うことで、さっき舐めた海水の塩分を〝薄い〟と感じることになったと推測できる。これは、膨大な時間が成せるワザだが、その可能性は決して低くはない。僕は壁に向かって歩き出した。
少し時間を要したが、目的のものを発見した。僕の推測は正しかったワケだ。これで飲み水を確保することができた。ようやく、彼女との約束に一歩近づいた。
僕は目覚めてすぐに彼女の心配をしなかった。それは彼女を蔑ろにしたのでも、自分を優先したのでもない。
事実として、僕は生きていた。しかし、この飲み水を確保するまでは、その命を保つことができない状態にあるのだから、飲み水を確保できていない状態の、〝死〟が確定している僕に、彼女を心配する権利はない。今の僕の目的は、生きて再び彼女の前に立つことだ。そのためにできること、しなければならないことがあるのならば、何でもする。
彼女の安否は心配だ。だが、それは今の僕にどうすることもできない。そもそも、あの〝白〟が何だったのか、どうなったのかを知る術がない。あの船上で〝白〟を目にした瞬間から、予測、推測、想像に妄想が激しく頭の中を走り回っていたが、結局、そのどれかがゴールすることは無かった。今、僕がひとまず無事で居るということは、彼女にもその可能性があるということだ。彼女が無事であるならば、僕が彼女を探すよりも遥かに容易に、彼女が僕を探す手段を講じることができる。それは1つの希望だ。
彼女の才覚であれば、僕が海に落下した位置、その日時の潮流から、僕がどこへ流されるかをある程度予測できる。加えて彼女の社会的地位があれば、その特定した地域一帯を人数、設備、装備を動員した捜索にあたることが可能だ。僕としては、それまでの間、どれほどみじめであろうと生きながらえることが目的の達成条件となる。そう、彼女が無事であることが前提ではあるが、彼女の最大の望みは〝僕が生きている〟ことだ。その望みを、本人である僕が放棄するワケにはいかない。
とは言え、僕はここでただ生きていればいいというわけではなさそうだ。どれほど大部隊の捜索隊が編成されたとしても、この縦穴そのものが発見されないことや、存在が解っても、この縦穴が捜索対象外となる可能性がある。僕が〝奇跡〟だと言ったように、潮流だけでここへ流れ着く可能性は極めて低いからだ。
そうなると、僕が次に行うべき行動が決まってくる。目的は、僕がここに居ることを外へ知らせることになる。しかし、それはカンタンではなさそうだ。
歩ける場所は全て歩いた。分かったことはと言えば、この場所には植物が存在していないことぐらいだ。
ちなみに、ジーンズのベルト通しに家の鍵が下げられたまま残っていた。車の鍵も一緒にあったはずだが、どうやらこちらはどこか別の場所にでも流されたらしい。そしてそれらの鍵を束ねるキーホルダーとして、ビクトリノックスのキャンパーが生き残っていてくれた。ポケットツールの代表格である。これは正直、嬉しかった。これで生存率が飛躍的に上がる。
ビクトリノックスキャンパーに対し、少しぐらいはどこかにあるだろうと思っていた植物が無い事実は、上がった生存率を上回る勢いで生存率を下げそうだ。植物は道具の基本となる。葉一枚でも、道具としての使い道を模索できるというのに。
植物が存在しないことで最も辛いと感じるのは、火の元となるものが無い事だ。もしも低木でもあれば、時間はかかるだろうが、それを乾燥させ、摩擦による発火が期待できたハズだ。加えて、食料の問題も出てくる。果たして飲み水だけでどれほど生きていられるものなのだろうか?食用に耐えうるか考えるまでもなく、それしかないのならば、たとえ雑草だったとしても口にする覚悟はあった。もしかしたら、海に魚が居るかもしれないが、それを素手で捕獲するのは至難の業だ。
植物が存在しないという事実は、僕がこの場所に留まるという選択肢を拒否しているようだ。
そうなると目的地は二択だ。海側の〝壁の向こう〟か、陸側の〝壁の上〟だ。これはどちらを選択しても、難しい挑戦になることが明白だ。
壁の向こうはどうなっているのかが解らない。実際問題、僕自身がこうして生きたままここへ来ることができたのだから、理屈的には、生きたまま向こう側へ〝戻る〟ことも可能と考えるべきだろう。そのルートはおそらく海中にある。それがただの穴なのか、トンネルと呼ぶほどに長いのかは知らないが、仮に潜り抜けたとして、たどり着いた先が海しか無かった場合、そこに留まることはできない。これが成功と呼べる結果に終わるには、向こう側に生存を維持できる陸地が存在することが条件だ。もしもこちら側を選択するのであれば、次にすべきことは、潮の満ち引きを把握することになるだろう。
では、壁の上にたどり着くことはできるのだろうか?壁面には無数に凹凸が確認できる。例えばロッククライマーならば、落下のリスクを横に置いたとして、登頂は可能だろう。運動神経はいいと言ったが、さすがにクライマーではない。ボルダリングを趣味程度にしている程度だ。見上げる限り、マンションの10階以上の高さがありそうな壁を登りきるなんて芸当は果たせそうにない。可能性があるとすれば、まだ見えていない箇所にルートが存在することのみだ。これが無いとすれば、先に挑戦するのは海中探検ルートということになる。
さて・・・どちらを選ぶべきか。どちらを選ぶにしても、最も避けなければならないことは〝負傷〟だ。これは死に直結する可能性がある(負傷の程度によっては死因になる)。そして、どちらのルートを選択するとしても、体力が必要だということは理解できる。エネルギー補給ができない現状では、時間を無駄にすることはできない。
海中に入れば衣服が濡れ、これから訪れるであろう〝夜〟が僕の体力を奪っていくだろう。向こう側へ抜けることが目的なのだが、果たして酸素が足りるかという問題を確認したいところだが、可能ならば、今夜を待たずに実行したいところだ。
ふとした不安から、海を見た。驚いたことに、背ビレらしきものが2つ見える。一瞬、サメだと認識したが、それはすぐに覆る。海面に顔を出したのは、イルカだった。これで、海中に穴があることは確定した。あの2頭のイルカがこの浜だけで生活しているはずがない。
そう言えば、彼女は海が好きだ。頻繁とはいかないまでも、船旅の経験が多いのも海が理由なのかもしれない。
僕の住んでいた伊勢は、海に面した場所だ。伊勢湾がすぐそこにあり、鳥羽や志摩、その先には賢島がある。2人でよく海を見に行ったし、海にも入った。
彼女の水着姿はとにかく人目を引いた。絵面だけで見れば、モデルが仕事として撮影でもしているかの様相だ。その反面、実際はと言えば、はしゃぐ姿が子供にし見えない。だからと言って、彼女の魅力が半減することはない。僕が少し離れると、見知らぬ男性から声をかけられている。彼女として〝迷惑千万〟だそうだ。だから彼女はよく言っていた。
「誰も知らないプライベートビーチ、どっかにないかなぁ?そしたら本気で楽しめるのに」
「そんなホイホイ落ちてるようなモンじゃないでしょ?でも、そんなトコに行けたとしたら・・・」
「そりゃもう!テンションマックスでしょっ!嬉しすぎて、水着着るのも忘れるわ」
「いや、それはさすがに着とこうか・・・」
一瞬、彼女を連れて、安全にここへ戻ってこようと考えた。でも、そうするとホントに水着無しではしゃぎかねない・・・。
記憶の中に居る彼女は、様々な表情を僕に見せてくれている。「必ず、彼女のもとに帰る」そう自分に言い聞かせ、背後の壁へ視線を向ける。可能性として壁面に他のルートがあるようには見えない。それほど広くはないとはいえ、無駄に歩くよりは、存在が明確な海中ルートか・・・。
目覚めた時からすれば、落日に近付いていることが解る。最初は存在していた陽に照らされている砂地が全て影に覆われようとしている。
「・・・ん?あれは・・・」
縦穴の底を全て影で埋め尽くそうかとする間際、壁が作り出していた影に違和感があった。穴の縁が描き出すなだらかな影の曲線に、わずかな凹みがある。僕は急いでその凹みの辺りに立ち、その影の持ち主を見上げた。
凹みの正体は裂け目だった。壁の頂上にソレはある。果たしてソレが、僕が今立っている砂浜まで達しているのかは、ここからでは判別できない。とは言え、確認しない手はない。その裂け目の位置は、海と砂浜との境目辺りだろうか?実際のその場所は、すでに闇が支配しつつあった。
この時、僕は見上げた空に違和感を抱かなかった。穴の底から見上げる空は、雲1つ無い快晴。実に青い空だった。
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