色合わせ
@jm-system
第1話 白
【私の前に立つ者よ、持てる全てを使い、事実を見極めろ。そしてその向こう側にある真実を手に取れ。それが始まりだ】
風が流れている。少々アルコールの入った僕の体に、その風は心地いい。ここは太平洋上のどこか。昨日の夕方に神戸を出発して1日が経過している。いわゆる〝豪華客船〟というものに乗っている。僕個人の人生としては、こんなモノに乗船することは想像できなかった。ましてや船で100日以上かけて世界を一周するなんて、予想とか想像なんてモノの範囲にそもそも入っていない。
イタリア国籍と思しき40代前半頃の男性(声を掛けてきたときの言語がイタリア語だった)と、少しのやり取りを終えた女性が僕の方へ歩いてくる。「おまたせ」と言わんばかりの表情だ。
「どう?船旅も悪くないでしょ?」
「ああ、悪いどころか、快適だよ」
「ちょっと前までは乗り気じゃなかったハズなのにね」
その女性は年齢26歳。数か国語を操る才女だ。昨晩の出航パーティーのドレス姿は、彼女が視界に入った人々(とりわけ男性)の視線を長時間奪うに十分な魅力があったが、今の彼女はキュロットスカートに無地の白いTシャツと、上から薄手のパーカー姿だ。それでもキュロットスカートからスラリと伸びた脚は美しく、小心者な僕はそれだけで目のやり場に困る。
「そうイジめるなよ・・・感謝してますって、ホント」
「なら許そう」
そう言いながら笑い出した彼女は、昨日僕の妻となった人だ。ある財閥の令嬢なのだが、それを微塵も感じさせない。そうでなければ、僕と出会うことすら無かったハズの女性だ。
いつの頃からか、彼女は僕の仕事場に顔を出すようになった。僕はマンションの1室を借り、そこを仕事場としている。都心と言いたいところだが、僕の仕事で、都心に生活の場を設ける必要性は全く無い。それこそ、スマートフォンとノートパソコンさえあれば、そこらの喫茶店でも、何なら公園だったとしても仕事ができる。
僕は三重に住んでいる。それも伊勢。そこはとりあえず観光地であり、伊勢神宮の存在(もしかすると伊勢エビかもしれないが)がその地を有名にしている。土日ともなれば、場所によっては人の往来が盛んだが、実際に住んでみると、ハッキリ言って田舎だ。とは言え、30歳になった僕としては・・・いや、年齢に関係なく、僕は田舎が好きだった。とりわけ、伊勢神宮に参ったことがあるならば感じたことが有るかもしれないが、そこだけが別世界であるかのような空間は居心地がいい。僕は自ら伊勢という地を選択して、そこを活動の拠点としていた。僕は物語を紡ぎだす職業、いわゆる小説家だ。
彼女は僕の処女作を読んだ人物だった。それを読んだ時、彼女は両親と東京に住んでいた。生まれも育ちも東京だが、箱入り娘ではないらしい。両親も知らぬ間にオーストラリアへ飛び立ち、そこで1年間、何のコネもなく生活していたこともあったらしい。才色兼備なうえ、とてつもない行動力を兼ね備えている。
その行動力のおかげか、3年ほど前に、まだ有名にもなっていないただの物書きだった僕の居所を突き止めた。ただ「ありがとう」と言うためだけに。
その時のことは鮮明に覚えている。ピンポーンとインターホンが鳴り、宅配か何かだろうと思って玄関を開けた僕の前に立っていた彼女は、ジーパンに白のTシャツという、とてつもなくシンプルな服装で、長い黒髪をポニーテールに纏めていた。
初見での印象・・・そりゃあもちろん、自分の目を疑った。僕を訪ねて来るには美人過ぎる。
彼女は僕の初めての物語を読み、自然と涙したそうだ。彼女にとって、自分も気付かないうちに涙が頬を伝った現象は、初めてのことであったらしい。それほどに自分の心を動かしたことに対する感謝を、どうしても直接伝えたかった。その思いが彼女を動かした。
彼女の訪問はそれ一度きりではなかった。最初の半年ぐらいは月に1~2回。次の半年間は週に1回。1年が経過したころには、ほぼ毎日。気が付けば、伊勢にアパートを借りていた。
僕の家を訪ねて来る前までは、父親の会社に属し、肩書は〝副社長〟だったらしい。父親のコネかと思ったが、後から聞いた話では、役員が満場一致で彼女にその役割を依頼したらしい。いくら社長令嬢だからといって、大学卒業と同時に〝副社長〟を依頼されるなんて、過去にどれだけのことをしてきたのだろうか・・・?才女が過ぎる。ちなみに、今の彼女は父親の会社にとって、〝特別顧問〟という立場らしい。僕の仕事場でも、時折電話で指示を出している。
彼女は自分の考えや想いを臆することも、照れることもなく、実にストレートに相手に伝える。最初は感謝を伝えに。そしてすぐに僕に興味を示し、やがて好意を抱くようになり、半年を待たずにそれが恋愛感情に変わったことを、僕は直接彼女から聞いている。
僕は彼女にとって、〝思考の対局〟に居る存在だそうだ。にもかかわらず、対立することがない。そうした存在は、彼女の今までの人生においていなかった。これまで常に人の前に立ってきた彼女が、初めて他人に前に立たれ、自分の考えを変えてくれた相手が僕だそうだ。当然、僕にはそんな御大層な意識などない。現に今、この船上での主導権は明らかに彼女にある。だがそれは、僕が考えるお互いの立ち位置であって、彼女の考えるソレではない。重要なのは、相手がどう感じるかであり、好意的になるように操作された行いであってはならない。
まず先頭に立つべきは自身の意志であり、その結果として相手から好意という報酬を得ることが最良だと僕は考えている。そして、僕が最優先する僕の意志は〝彼女が幸せであること〟だ。
「昨晩は新婚初夜って雰囲気、微塵もなかったよね~」
「初夜って・・・部屋に戻ったころには薄っすら明るかったしね・・・。にしても、まさか船の上で結婚式・・・それもあんな結婚式になるとは、思いもしなかったよ」
「カタイの嫌いだし、格式張るのもゴメンだモン。もともと出航初夜はパーティーなんだから、それに便乗ってね。ウェディングドレスだけは着たかったから、私的には目的果たしたわ」
昨晩、僕と彼女は誓いのキスをした。それも、まったくの見ず知らずの人々の前で。普通なら恥ずかしさでそれどころではなかったのだろうが、彼女の言うように、もともと開催されているパーティーに便乗したようなものだったため、雰囲気・・・と言うよりは〝ノリ〟がそれを容易にしてくれた。僕たち日本人が知る結婚式や披露宴といったものからは、大きくかけ離れた僕と彼女の結婚式は、それはソレで、記憶に残る楽しいモノになった。
「流石に今晩はこのままゆっくりしたいところだね」
「そうね・・・今夜は2人でゆっくりしたいね・・・あ、あのさ?」
彼女は手に持っていたワインを半分ほど残したまま、僕の目を正面から見つめてきた。わずかに微笑んでいるように見えるその顔を、海の向こうに沈もうとする夕日が赤く染めている。
「ん?」
「好きよ」
「ああ、ありがとう。僕は必ず君を護る。君の側で」
「アナタって、ホント、好きとか愛してるって言わないわよね?」
僕を覗き込むような彼女の顔は、いたずらっぽさこそ見て取れるが、怒っているような雰囲気はない。
僕は確かに、「好き」や「愛してる」という言葉を使わない。決してそれを否定しているわけではないし、それがその人の表現の方法なのだから、僕が否定していいものではない。ただ、僕はその2つの言葉を口にするには、具体性に欠けると感じているだけだ。
それぞれの言葉を人は多用する。それは家族間や、友人間、そして当然、男女間で使われる。その言葉が、相手を想う気持ちを表した言葉であることに疑いはない。ただ僕自身が相手をどうしたいのか、どうあってほしいのか、自分にとって何なのかを伝えたいだけだ。これでも僕は小説家だ。結婚を決意したきっかけに受賞を使ったが、有名な賞を得るほどには小説家だ。僕以外の人からすれば、よくわからないプライドなのだろうが、残念ながら、僕はソレを持ってしまっている。
「言ってほしいかい?」
「んー・・・私からすれば、今までにもいっぱい言ってもらってるし・・・むしろ、アナタの心を表現してくれてるから、おなか一杯かな」
彼女の浮かべた満面の笑みが僕にとっての答え合わせだ。この表情、きっと世の中の誰が見ても、〝嬉しそう〟なのを疑うことはないだろう。
「いよいよ、今夜・・・で、いいんだよね?」
僕を正面から見据えたままだった彼女が、途中で視線を逸らした。うつむいたその表情は、夕日を遮りはっきりと見えない。珍しいことだが、彼女が恥ずかしそうにしているのが解る。それが分かったところで、彼女と同等の恥ずかしさに加え、緊張まで加わった僕がどうこう言える道理もない。
「こ、こんなトコロで止せよ・・・いや、ホント。け、経験ないからな・・・」
「ちょっと・・・それは私もそうなんだから・・・ってか男なんだから、ちゃんと・・・リードしてよね」
「できる限りね・・・と、と言うか、今はその話、止めにしないか?」
「あー・・・それは、賛成。」
気付くと、太陽は水平線に沈み、辺りは残光をわずかに残すのみとなっていた。きっと、「暗くなって良かった」と思っているのは、僕だけではないはずだ。
お察しのとおり、2人は未経験だった。彼女は当然のことながら、僕も異性から好意を持たれることは過去にあった。ただ、これまた2人とも、男女間の関係よりも興味のあることや熱中することが多かった。互いにそれを打ち明けたあと、冗談っぽく「結婚するまでは」と言って笑い合っていたが、いつしかそれは確かな〝約束〟となっていた。
「ねぇ?今さっき・・・太陽って沈んだよね・・・」
僕と彼女は向き合って立っている。すでに東西南北は見当もつかないが、彼女の今までに見たこともない表情が、僕の背後で起こっている異常を教えてくれる。
「あれ・・・ナニ?」
彼女の腕がスッと持ち上がり、指先が水平に僕の背後へ伸びている。僕は彼女の肩から腕を追うように視線を走らせ、彼女の指先が示す方向を見た。まるで水平線から登る朝日かのように、水平線から白い光が広がっている。それは少しずつ、でも確かに広がり、中心と思われる場所では、すでに水平線がどこなのか見当がつかない。
「光・・・?じゃ、ない・・・な」
船上ではすでにパニックが起こっている。僕は彼女を抱き寄せ、いつ衝撃などがあってもいいように、手すりを強く握りしめた。彼女も強い力で僕に抱き着いている。咄嗟に僕は思考を口にした。
「これは常識の外だ。何が起こるか解らないから、1つのことに集中して」
「ナニに?」
「僕を離すな。僕もキミを離さない」
「解った・・・信用してるからね」
「当たり前だ。空想や想像は僕の得意分野だ。事態に備える」
自分でも不思議だった。明らかな異常事態であることは明白だ。知っている知識フル動員すれば、この現象の正体を得れるだろうか?いや、おそらく自然現象でなく、また世界に存在する全てのどの学問でも解明できるとは思えない。だからと言って、コレを超常現象と定義することも、僕の直感が拒否している。肝心なコトは、広がっているコレが光ではないことだ。
「怖い・・・よ」
「ああ、それは僕も同じだ」
僕は片手で抱き寄せていた彼女を、ほんの少し角度を変えてキスをした。異性間というものに笑えるほど臆病だった僕としては、自分の行動が若干信じられない。どうやら彼女もその意見には賛成のようだ。
「ちょっと予想外の出来事だわ」
「こんな現象、誰が予想できるよ?」
「そうじゃなくて・・・アナタのキス」
「んあ?そっちかよ・・・自分でも驚いてるさ」
「不思議ね・・・怖さが半減した気がする」
彼女の表情から、先ほどまで体全体を覆っていた恐怖感が姿を消した。
周囲のパニックは収まるどころか、恐怖が膨れ上がる一方だ。甲板に出ている人々は口々に「光」という単語を発している。自分たちの置かれている立場が、逃げようのない船の上だという事実が、より一層、人々の恐怖を増幅させているのだろう。彼女の視線がそちらに向かないように気を付けてはいるが、船内へ入る場所では人々が争い、すでに悲惨な風景へと一変させてしまっている。
「ウユニ塩湖・・・が近いかな?」
「それってボリビアよね?南アメリカよ?全然、近くないと思うけど?」
どうやら落ち着きを取り戻しているらしい。彼女の的確な指摘が耳に届いた。ウユニ塩湖自体は有名だが、それがどの大陸の、何という国にあるのかを知っているとは驚きだ。
「いや、場所の話じゃないよ。この現象そのものの話さ」
「あの白いの?」
そうだ。アレは皆が言うような「光」ではない。ただ白という色が広がっている。ウユニ塩湖は、要するに錯覚が引き起こす風景のことであり、コレもそうだと思う。それが壁のようなものなのか、それとも空間なのか、それを今判別することはできないが、これが錯覚であるならば、すでに白く塗りつぶされた場所に、元々そこにあったものはない。
「照明が邪魔だな・・・」
「そうね・・・照明の光が反射して、実態を捉えにくいよね」
「ずいぶん・・・冷静だね?」
「あら、それってどの口が言うのかな~」
「そりゃそうか」
「ねぇ・・・切り抜けられる?」
彼女の顔が引き締まった。おそらく、〝真実〟は解らないが〝事実〟が理解できているのだろう。そこに存在していたもの、今この場所から見えていたもので言えば〝海〟がそうだが、それが消えている。消えたその場所には何もない。物質ではなく、ただ〝白〟が存在しているだけなのだ。
僕の想像(と言うよりは〝妄想〟の方が近い)が正しいとするならば、コレを僕は知っている。いや、僕だけじゃない。今の世の中なら、大多数の人間が知っているハズだが、人間の思考はそれほど柔軟ではない。誰もソレにたどり着くことは無いだろう。ところが僕と彼女だけは、今目の前で起きている現象をイメージできている。〝彼女〟もそうであることは、その目と口調に現れている。
「どうやら約束は果たせそうにない」
「私も」
僕は彼女を両腕で抱きしめた。彼女もしっかりと僕を引き寄せている。お互い閉じていた目を開き、互いの顔をしっかりと確認する。
「あっ!」
僕からは死角だった。それでも、彼女の声と移動した視線で、それの方向を把握できた。物書きな割りに、僕は片目だけだが視力が良い。彼女が視界の端で捉えたモノを、僕は彼女の眼球内で捉えた。
赤ちゃんだった。僕たち2人のすぐ側、恐怖に震えてはいたが、しっかりと母親であろう人に抱かれた赤ちゃん。その赤ちゃんは、彼女が声を上げるほんの僅か前、母親の腕から離れ、宙を舞った。このパニックによる人々の行動がその原因だ。これが何でもない日常ならば、例え船の上だったとしても、母親が他人とぶつかった程度で我が子を離すことはない。しかし、この状況下にあっては、そのぶつかった衝撃は強く、母親の腕は弱かった。赤ちゃんが飛び出したその先は、まだ残存している海のはるか上だった。
その後の母親の声にならない叫びを横目に、僕は赤ちゃんの方へ動いていた。物書きのイメージを損なうかもしれないが、僕は運動神経に自信がある方だ。学生時代に様々なスポーツに興じていたし、なんなら今も続けているものもある。
正直なところ、この現象が僕たちの想像通りのものならば、この赤ちゃんは助からない。もしも母親の腕の中に居続けていたとしても、その結果は変わらないだろう。でも、それでも、その瞬間が来ても、赤ちゃんは母親の腕の中にいるべきだ。
一瞬振り返った僕は、その瞬間に彼女を見た。彼女も僕を見ている。そしてコクンと、力強くうなずく。しっかりと聞き取ることはできなかったが、その口が
「行って」
と言ったように思えた。
僕の体は船上から完全に外へ出た。海へ落ちようとする赤ちゃんの後を追い、デッキの端にある柵を蹴り、飛び出した。赤ちゃんに手が届くまでは一瞬だった。そこに至るまでの間、何を踏み台にしたかも定かではない。もしそれが人だったとするなら、悪いとは思うが、許してもくれるだろう。
僕は赤ちゃんのおなかへ左手を滑り込ませ、そのままバックハンドで振りぬいた。その反動で僕の体は船の方へ回転する。そこで見えたものは、僕の手から放たれ飛んでくる我が子を、今度こそは離すまいと決意する母親の腕と、「愛してる」と口を動かす、泣き顔の彼女だった。
僕は言葉を返せなかった。愛していないワケがない。だがこれまで、その言葉を使わずに想いを伝えてきたのは僕だ。いろんな想いを伝えてきた。でもそれらは全て、僕が側にいるからこそ叶う言葉だった。
「そうか・・・こういう時に使う言葉だったんだな・・・」
僕は自分のくだらないプライドのせいで、彼女の想いに応えることができなかった。
僕は、まだ〝白〟ではない黒い海へ落ちた。
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