第6話

 行きはバスで来た道のりを、帰りは歩くことにした。日はすでに傾きつつある。昼間の暑さが落ち着いた、ぬるい空気の感触が頬を撫でる。


 歩きながら僕は、今日の出来事をなんとか自分の中で決着させようと努めた。僕にはわからなくなっていたのだ。結局この事件は、誰が誰を殺した事件だったのか。誰が被害者で、誰が加害者だったのか。どこからどこまでが現実の出来事だったのか。何もかもが境界をなくし、曖昧になってしまった。


 ただ、オーソンの悪魔じみた囁きだけが耳にこびりついて離れない。


——きみは、リアルの人間なんてつまらないと思ったことはないか?


 彼の言ったことは外れていなかった。僕は、確かにくだらない人間関係をやり過ごすことに腐心していた。立派な目標もなく、ただ漠然とこの社会の一員となっていくことに不安を覚えていた。


 しかしオーソンは、虚構の人物に、仮想的にではあるが姿を与えて生かすことで、この現実に希望を見出したのだ。理想の女性をプロデュースし、彼女らとコミュニケーションをとることすら可能にしたのだ。魔理衣メリープロジェクトは失敗に終わったが、彼はまだこれからもバーチャルの人格を誕生させ続けるのだろう。僕にはそれが、少し羨ましかった。


 ポケットの中のスマホが小さく震えた。取り出してみると、メッセージが届いたという通知だった。


「どうだ? 何かわかったか?」


 送信者のユーザーネームは「新垣護」。アイコンは、ライブハウスで撮られたらしい、本人がギターを持ってマイクスタンドの前に立っている瞬間を切り取った写真だった。彼のありのままのリアルな姿が、そこにはしっかりと反映されていた。音楽で生きていくことが夢だと話してくれた時、現実が見えていないなどと思ったのは何故だったろう。彼が現実に生きていないなら、僕はどうなのか。


 日向さんにしてもそうだ。フィクションを創作する立場ではあるが、それは趣味として、現実と折り合いをつけながら上手に生きている。僕が読書に逃げながら、誤魔化し誤魔化し生きているのとは大違いだ。


 スマホを遠ざけて頭を抱えた。僕をこの事件に巻き込んだ張本人に結果を報告しない訳にはいかないのだが、さて、なんと返信すればいいだろう。オーソンには誰にも言わないと約束してしまったし、仮に明かしてしまうにしても、この事件をわかりやすく説明することは容易でない。いや、ありのままを全て語ったところで、新垣には理解できないだろう。リアルを見据えて生きることができる人間に、バーチャルを愛した男の心境など、思い及ぶはずがないのだ——。


「きゃっ」


 新垣への返信に気を取られていて、正面から人が歩いて来たのに気づかなかった。ぶつかった相手のスマホが僕の足元に落ちる。


「ごめん、怪我はない?」


 僕は素早く屈んでスマホを拾い、傷がないのを確認して手渡した。


「あ、ありがとうございます。こちらこそ気づかなくてすみません」


 相手は同世代くらいの女の子だった。来た方角から推して、おそらく同じ大学の学生だろう。更に偏見を交えて推測するなら、大学デビューで気合いを入れていたのが、十月にもなって気が緩み始めた一回生、というふうに見える。明るいオレンジブラウンに染められているが、いわゆるプリン頭になりつつある髪。ゆったりとしたチュニックを着ているが、それといまいち釣り合いの取れていないメイク。気弱そうな物腰。自信なげな表情。外見はどこをとっても冴えない印象が拭えない。が——。


「あの、どうかしました?」


「ああいや、なんでもないよ。それより——」


 その先を続けるのは躊躇した。これ以上踏み込むと取り返しがつかないと直感していたからだ。しかし、現実と仮想との境界を見失った僕に、この蠱惑的な衝動を抑えるだけの自制心はもはや残されていないようだった。


 僕はいま、オーソンと同じ世界を見たのだ。


「——それよりきみ、素敵な『声』だね」




——了

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生けるバーチャルの死 黒猫のプルゥ @plutheblackcat

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