第5話

 オーソンに案内されたその部屋は、新垣の話から想像していた以上に赤い部屋だった。カーペットやカーテン、壁に貼られた防音材さえ、部分的にではあるが赤く染められていた。


 部屋の奥の方、窓のすぐそばにソファがあり、その手前にはテーブルがあった。今日も何かの作業をしていたのか、カフェイン錠のボトルと空になったグラスがテーブルに置かれていた。


 ドアから近いところに動画作りのための広い作業机があった。僕は物珍しさに惹かれてそちらへ歩み寄った。横並びに配置された二台のモニターを始め、カメラ、マイク、ゲーム機、ミキサー、その他名前もわからない機材の数々が全てデスクトップPCに接続されており、机の裏側は配線が入り乱れた状態になっている。何気なくマウスに触れてみると、スリープが解除されてデスクトップ画面が表示された。壁紙は魔理衣メリーのイラストだった。上から見下ろす構図で、彼女は爪先立ちになり、その右手を懸命にこちらへ向けて伸ばしている。まるで、私をこの平坦な世界から引っ張り出してと言っているかのように。——あるいは、僕らを向こう側へ引きずり込もうとしているかのように。


「さて、こっちの部屋も見てもらったことだし、名探偵様の推理ショーのお時間かな?」


「うん、もう答えは出たよ。きみが望むなら、この場で真相を暴き立てることもやぶさかではない」


「へえ、それは是非ともご拝聴賜りたいね」


 オーソンは茶化すように言った。日本語がおかしいのはわざとだろう。僕はドアの内側についたつまみを回して、鍵がかかることを確認しながら話し始めた。


「まず、愛理さんを直接殺すことができたかということだけど、これは可能であったと言わざるを得ない。この部屋は密室でもなんでもなかったんだから。例えば、関係者全員が共犯であった場合。これなら、そもそも鍵の問題なんて存在しない。日向さんが鍵を持って殺しに行けばよかったんだ」


「馬鹿な、そんなのはナンセンスだよ。もし僕らが全員で愛理を殺そうとしたなら、もっとましな計画を立てるさ」


 オーソンは呆れたように首を振って、作業机の前のゲーミングチェアにどかっと腰掛けた。僕はあえて座らず、部屋を歩き回りながら続ける。


「だろうね。もし三人で計画したなら、新垣が鍵を持ち出せたかもしれない、なんて可能性を中途半端に残す必要もなかったんだから。日向さんは座椅子に座っていて見えなかったから仕方ないとして、オーソンは見える位置にいたんだから、新垣がいない間も鍵は机の上にあったと言えば良かったんだ。だからこの線は消去して良さそうだね。じゃあ、共犯者の数を二人に減らしてみたらどうかな。僕は、それでもやはり犯行は可能だったと思うんだ。——つまり、新垣と日向さんが共犯だった場合だよ」


「へえ、それは面白い。どう筋を通すつもりなのかな」


「事件の日の予定が決まったのは二日前だったということだから、計画を立てる時間はあったと考えていいだろうね。自らの作品を台無しにされた恨みをもつ二人が、藍藤エリィの活動に協力する君を除いて結託したんだ。話し合いの場に全員が集まると、二人は愛理さんを責め立てた。そうすることで、彼女がこの部屋に立てこもることも計画のうちだった。九時前に日向さんは鍵を持たずに一人で部屋を出る。そして、この時はまだ無事だった愛理さんに、内側から鍵を開けさせたんだ」


「ちょっと待って。なんで愛理は言い争ったばかりの人を部屋に入れるんだ?」


「さっき、愛理さんの家庭の事情を知っているかと訊いたね? きみは知らなかったそうだけど、日向さんは知っていたんだ。つまり、きみには話せないようなことも、日向さんになら話せるような関係だったということだよ。なら、ドアの外から謝って、『少し二人だけで話をしたい』とでも言えば、愛理さんがドアを開けるのもあり得ることだったんじゃないかな。いや、日向さんはむしろそう確信していたんだ。まんまと部屋に入り込んだ彼は愛理さんに薬を飲ませ、何食わぬ顔できみの部屋に戻ってきた。次に、新垣が鍵を持って部屋を出る。こっちは鍵を閉めるだけで良かったんだから時間はかからない。これで鍵のかかった部屋で愛理さんが亡くなるという状況は出来上がったわけだ。この場合、きみを証人にすることができるんだから、二日で立てた計画にしては理に適っているといえるだろう。——どうかな、本格ミステリの真相ならこんなもんじゃないかと思うんだけど」


「確かに、それなら鍵の問題はクリアしているようだね。しかし、肝心のところが説明されてないじゃないか。カフェイン錠を飲ませるという殺害方法だよ。カフェイン錠がこの部屋にあったことを日向さんは知らなかったはずだし、そんな不確かな方法を選ぶのも納得がいかない」


 僕はテーブルの上のカフェイン錠のボトルを持ち上げ、ラベルを読んだ。一錠あたりのカフェイン含有量が二百ミリグラム。三十錠も飲めば致死量に達するだろう。それがこのボトルには百錠も入っているのだから、死ぬには十分すぎる量だ。


「日向さんたちは事前に殺人を計画していたんだから、ちゃんと別の方法を用意していたに違いないよ。ただ、この量のカフェインを見たら試してみたくなったんだろう。それがたまたま上手くいったということだと思うんだけどね。もしかしたら愛理さんには、カフェインが危険なものだという認識すらなかったかもしれない」


 オーソンはあごに手を当てて少し考え、それから口を開いた。


「でも、それじゃあまるで『第三の男』だ」


「第三の……?」


「古い映画のタイトルだよ。主人公はアメリカ人の男でね、オーストリアに住む友人から手紙で呼び出されるところから物語は始まるんだ。彼がウィーンに到着してみると、手紙を送った友人は死んでいた。その死に不審な匂いを嗅ぎ取った彼は調査を開始する、というあらすじなんだけどね、結局最後まで、なんの用事でウィーンに呼び出されたかという点は明らかにされないんだ。いやむしろ、そんな手紙が送られたはずはない。ある意味シナリオが破綻しているんだよ。それでも名作であることに変わりはないけどね」


「はあ、言いたいことはわかったよ。新垣たちが犯人なら、そもそもなんのために僕は事件に巻き込まれているのかってことだね。計画通り自殺として処理された事件の調査をやらせたって、犯人にはなんのメリットもない。——うん、おっしゃるとおりだよ。だから、これも実際には起こらなかったこと」


「なら、何が言いたい?」


「愛理さんは直接殺されたのではないということさ。——オーソン、きみは『プロバビリティの犯罪』って知ってるかな」


 僕は彼の方へ歩み寄った。


「さあ? 聞いたこともないよ。プロバビリティという単語から推測するに、可能性にかけた犯罪といったところかな」


「あながち間違いでもないね。『プロバビリティの犯罪』というのは、犯人が直接手を下すことはせず、犯行の一部を蓋然性に委ねて確実性を犠牲にすることで、その代わり、決して罪に問われる心配はない、そういうやり方のことなんだ。例えば、冬場の凍結しやすい階段に毎朝お湯をかけて溶かしていた人が、ある日突然その仕事をサボったら、用心せずに通った人が足を滑らせて死ぬかもしれない。でも、実際に死人が出たとして、罪に問われる人はいない。これが悪意のある犯行だなんて、誰も思いもよらないだろうね。——僕は、愛理さんが亡くなったのも、そういう性質の犯罪だったんじゃないかと思っているんだ」


 つい先程自分がそうされたように、まっすぐ、じっとオーソンの顔を見つめた。が、彼は目を合わさず、ぼんやりとモニターを眺めるばかりだった。


「……わからないな」


 オーソンは静かに言った。


「そう? きみほど頭がよく回る人間にならわかると思うんだけど。この事件、そもそも不審な点はたった一つしかないじゃないか。愛理さんが自殺した理由だよ。それがはっきりしないから新垣は僕に相談したんだ。なら、何が愛理さんに自殺を決意させたかを考えればいい。まず、新垣と日向さんから責められたこと。これだけのことで自ら命を絶つとは思えないけど、君の言うとおり、他の要因と重なればそれなりの意味があるかもしれない。もう一つ、直後にSNSでこぼした不満に対して多くの否定的な反応が寄せられていたこと。中には脅迫まがいのものもあった。しかし、これもいきなり大量の薬を飲むほどの衝動にはなり得ないように思える。なぜなら、藍藤エリィのアカウントが荒れた状態にあることを、愛理さんはちゃんと理解していたはずだから。——じゃあ、もし彼女がそのことを知らなかったとしたら、どう?」


 僕の問いかけに対して、オーソンは何も答えなかった。防音材によって外界と隔たれた室内に、二つの呼吸音ばかりが微かに響く。


「SNSには、特定の相手を非表示にする、ミュートという機能があるよね。犯人はそれを利用した。あらかじめ藍藤エリィに対して否定的なアカウントを全て不可視化しておいたんだ。だから愛理さんには、自分に対して寄せられる肯定的な反応以外はほとんど見えていなかった。階段が凍っていることを、彼女は知らなかったんだ。それから充分に時間を置き、魔理衣メリープロジェクトのメンバーを集めて話し合いの場を設ける。もちろん、そうすることで愛理さんがどう動くかを見越してね。他に犯人がとるべき行動は、全員が集まる直前にミュートを全て解除しておくこと。それからカフェイン錠をここに置いておくこと。たったそれだけだよ。愛理さんが藍藤エリィとして活動を始めた背景を、きみは知らなかったと仰るから一応説明しておくけどね、彼女は優秀すぎる兄に対して非常なコンプレックスを感じていた。だから、誰にも注目されない自分を表現するための場所として、エリィが必要だったんだ。この部屋に閉じこもってエリィのアカウントに逃げ込んだ彼女が、そこで目の当たりにした光景を思うと心が痛いよ。自分の唯一の居場所ですら裏切られたように、愛理さんは感じたに違いないんだから。画面の割れたスマホが、そのショックを物語っているじゃないか。——もう言うまでもないね。メンバーを招集し、カフェイン錠を置き、藍藤エリィのアカウントにログインすることができた唯一の人物。愛理さんを死に追いやった犯人は、きみだ、オーソン」


 オーソンは俯いて、口を開かなかった。真相を言い当てられて漸く観念する気になったのだろうか。


 僕の推理が当たっているとすれば、彼に殺意があったのは間違いない。しかし、これを法律用語でいう「未必の故意」として立証するのは難しいだろう。彼は悪意のあるアカウントを本人に見えないよう隠しただけなのだから。僕が彼の行いを裁くためにできることは何もない。


 大きくため息をつき、部屋をあとにしようとしたとき、笑い声が聞こえた。オーソンが、笑っていた。


「何が可笑しい?」


「チューハイさ」オーソンは顔を上げた。「きみはあまりにも単純な見落としをしているよ。ねえ、愛理はどうやってカフェイン錠を飲んだ? 何十錠も飲み込むのに、液体が必要でないはずがないよね? 僕が愛理を殺そうとしたなら、カフェイン錠と一緒に水のペットボトルでも置いてあってしかるべきじゃないか。それとも、偶然チューハイの缶を愛理が持って行ったのも計画のうちかな? 随分なプロバビリティだね」


 僕は答えることができなかった。オーソンの指摘した点は見落としていたわけではない。どうしても辻褄を合わせる方法が見つけられないが、しかし同時に、彼が犯人であると確信してもいたので、他を言い当てれば白状するだろうと期待したのだ。


「きみの勝ちだよ」僕はため息をついた。「その点はどうも上手く説明できない。でも、推理の大筋は間違ってないと思うんだ。もしよかったら、この無能な探偵にご教示いただけないかな。どうせきみは、罪に問われるようなことは何もしていないんだ。このことは誰にも言わないと約束するよ」


 僕が言うと、オーソンはまた笑った。


「無能な探偵とはご謙遜を。きみは真相の大部分を言い当てたじゃないか。いや、実際に起きた出来事については何一つ間違えてないよ。勘違いしてるのはおそらく、目的や動機だ」


「目的? それは愛理さんを殺すことじゃないか。きみは、理想の人格を誕生させるという計画を台無しにした愛理さんが許せなかったんでしょ?」


「そこが間違いだというんだ。いいかい? 僕が殺してやりたいほど憎んでいたのは上井戸愛理じゃない、藍藤エリィだよ」


「は?」


 絶句した。藍藤エリィを殺すという言葉の意味すら、僕には理解できなかった。


「だってそうだろ?」オーソンは、モニターの中の魔理衣メリーが伸ばした手にその手を重ねた。「メリーは理想の女性だと言ったじゃないか。僕はね、彼女を愛していたんだよ。現実を愛せない僕が、初めて愛したのがメリーだったんだ。その『声』である愛理を、どうして僕が殺さなきゃならないんだ?」


「じゃ、じゃあきみは、藍藤エリィだけを殺すためにSNSを?」


「そうさ、ターゲットは愛理じゃない。仮想の人間であるエリィを物理的に殺すことはできないから、だからSNSを使ったんだ。それが、まさかこんなことになるとは……」


 オーソンの顔が悲哀に歪んだ。画面の向こう側を見つめるその目は、やはり現実に焦点が合っていない。


「オーソン。きみは、本当に気づいてなかったのか? 愛理さんにとって、藍藤エリィとはなんだったのかということに」


「さあ、なんだったんだ?」


「わからないなら教えてやるよ」僕は初めて激しい憤りを覚えて声を荒げた。「『あいどうえりい』は『うえいどあいり』のアナグラムじゃないか!『藍藤エリィの人格』は『上井戸愛理の人格』そのものなんだよ! 藍藤エリィと上井戸愛理は不可分だったんだ。どちらか片方だけ殺すなんて……。きみは本当にこんな簡単なことがわからなかったのか?」


「ああ……」


 オーソンは項垂れた。その手がモニターからずり落ちる。暫く無操作だったパソコンは再びスリープモードに移行し、画面は暗転した。


「最後にもう一つだけ教えて欲しい。どうしてきみは、藍藤エリィを殺さなきゃならなかったんだ?」


 ゆらりと、力なく彼は身を起こした。


「僕に訊かなくてもわかるんじゃないか? ねえ、亀口。きみは同じ世界を見ることができる人間だと、僕はまだ信じているんだけどね」


「わからないよ。僕にはきみの考えることは理解できない」


「いや、わかるさ」オーソンは歪な笑みを浮かべて言った。「メリーはね、藍藤エリィが出てくるまでは確かに生きていたんだ。確固たる意思を持って自ら行動する、生きた人格だったんだよ。しかし、『声』を奪われたことでメリーは死んだ。——藍藤エリィは、僕の愛した理想の女性を、魔理衣メリーを殺したんだ」

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