第4話

 長い長い坂を下った先の大学前バス停から、駅前バス停へ。そこからJRに乗り換えてさらに下り方面へ三駅行った先に、大村三雄の家はあるという。


 僕は電車に揺られながら、イヤホンを耳に挿して魔理衣メリーの動画を見ていた。バスの車内からずっとそうしていたのだが、視聴時間が長くなるにつれ、それと比例するように、少しずつ日向さんが語ったことの意味が理解できるようになった。語ったこと、というのはつまり、「バーチャルの人格」についてである。


 一本目の動画の時は、薄っぺらなイラストを介して話す上井戸愛理を見ている、という感覚だったのだが、二本目、三本目と新しい動画を再生していくうちに、愛理さんは「声」という一つのファクターでしかなくなっていった。代わりに見えるようになってくるのが魔理衣メリー。何をやらせても完璧にこなすお嬢様、だ。


 彼女の動画は、内容は全く異なるもの同士であっても、必ず同じ核を共有しているようだった。言い換えるなら、容姿や声や口調、オリジナル曲のメロディや歌詞、ゲームの腕前に至るまで、魔理衣メリーを構成する要素はいずれも、ある一点を中心とした放射状に配置されているように感じられるのだ。視聴者がそれを逆に辿ろうと思った時、全ての収斂する点に形成されているのが、紛れもない「人格」であった。


 新垣や日向さんも言っていたように、メリーには現実味がない。が、それでも彼女は存在していた。バーチャルな人格として、確かにそこに在るのだった。


 その一方で——。


 僕は再生していた動画をスワイプして閉じると、検索バーに「藍藤エリィ」と入力した。こちらも幾つか掻い摘むようにして見てきたのだが、魔理衣メリーと比べると、どうしても雑然とした印象を受けてしまう。内容のない雑談配信が多い。行き当たりばったりの企画が多い。まさに、やりたいことをやって、話したいことを話しているだけ、という感じだ。そのためチャンネル全体に一貫性がなく、藍堂エリィはぼやけて、向こう側のリアルがうっすらと透けて見える。


 それが、必ずしも悪いというわけではない。こういう活動をしている女子大生にこそ魅力を見いだす者も多いに違いない。要は、現実と仮想とのバランスなのだ。メリーは仮想側に振り切り、エリィは現実側に寄っているというだけのことなのだろう。


 だが、あえてこちらも同様に「藍藤エリィの人格」というものを想定するならば、それは恐らく——。


 ふと電車が止まっていることに気づき、窓の外を覗くと、そこはもう目的の駅だった。


 僕はばっと弾かれたように立ち上がると、足の間に置いていた鞄をひっ掴み、今にも閉まらんとするドアに向けて突進した。





 駅から徒歩五分という好立地にある、二階建ての一軒家。まだ築十年と経っていないであろう、庭まである和風モダンな建築だ。周囲の住居と比べて、一回りも二回りも立派に見える。表札には「大村」とあった。


 考えてみれば当然のことだった。バーチャルアイドルをプロデュースするなど、金を持たない人間が考えつくことではない。


 僕はインターホンに指を置き、一瞬ためらい、結局押した。親が出たらなんと説明しようかとぼんやり考えていると、玄関のドアが内側から押し開かれた。


「やあ、いらっしゃい」


 現れたのは細身の男だった。身長は少し高めで僕と同じくらい。髪は短めのマッシュ。服装はチノパンにポロシャツと、なんとも当たり障りのない外観だ。失礼な話だが、オーソンは日向さんのようなオタクか、もっとわかりやすく根暗な男だろうと勝手な偏見で思いこんでいたので、これは少し意外だった。


「どうも、きみがオーソ……いや、大村三雄くんだね?」


「オーソンって気安く呼んでくれればいいよ、同期なんだし。僕もきみのことを亀口って呼んでいいかな」


 オーソンは言いながら、どうぞ上がってと手招きした。


「うん、構わないよ。——おじゃまします」


 案内されて家の中に入ると、僕らは一階のリビング前を素通りし、そのまま二階へ上がった。階段を登った先には廊下が左右に伸びており、正面に一部屋、左側に二部屋、右の突き当たりにも一部屋あった。階段のすぐ隣には便所がある。オーソンは左へ歩き、向かい合ったドアの片方を開けた。そこが彼の自室だ。僕は頭の中で見取り図に若干の修正を加えながらあとに続いた。


 部屋に入って、僕はまず、これまでの聞き取りの中で登場したものを確認した。ドアと反対側の壁際にある、新垣が座っていたという椅子とセットの学習机。その上のデスクライトの足元に置かれた小さな鍵。それから周囲を見回した。ベッドがあり、ローテーブルがあり、座椅子があり……。誰の部屋にでもあるものばかりだ。そう思いながらぐるっと見ていくと、半周回ったところで普通ではないものが視界に入った。


 ドアのある側の壁一面が棚になっており、VHS、DVD、ブルーレイなどが天井に届くまで所狭しと詰め込まれていた。真ん中には大きめのスペースが開けられ、やたら高価そうなテレビやスピーカーが据えられている。


「映画が好きなんだね」


「ああ、そうだよ」オーソンは気のない調子で答えた。「あれ、あんまり驚かないんだね。初めてこの部屋を見た人は大抵ドン引きするんだけど」


「うちの部屋も似たようなものだから。僕の場合は映画じゃなくて小説だけど」


 似たようなものとは言ったが、当然安アパートの一室にこんな立派な棚があるはずもないので、あふれた本が山積みになり、手がつけられなくなっているのが実情だ。


「へえ、そう」


 オーソンは自分のベッドに腰掛けた。では僕は座椅子にでも座ろうかとそちらへ寄ったとき、ふとテーブルの上に置かれたブルーレイのパッケージが目に止まった。


「『オリエント急行殺人事件』か。これ、面白かった? アガサ・クリスティの原作は読んだことあるんだけど、映画はまだなんだよね」


 僕は腰を下ろしながら言った。


「まあ、良かったと思うよ。キャストが豪華だし。ただ、『オリエント急行殺人事件』は一九七四年にも映画化されてるんだけど、それを見てる僕からすると、トリックを知ってるぶん意外性がなかったかな。原作を読んでないからなんとも言えない部分はあるけど」


 オーソンは僅かに前のめりになって言った。自分の好きなことについて話す時は誰しもそうなるように。


「へえ、以前にも映画化されてるのは知らなかったよ」


 それから暫く、奇妙な沈黙が流れた。会話はないが、何故か気まずい空気は感じられない。いや、今日はよく喋る人の相手ばかりしてきたから、僕が勝手に安心しているだけなのかもしれない。事件の話をしなければならないのだが、さて、どう切り出したら良いだろう。


「それで、何を訊きたいのかな」先に静寂を破ったのはオーソンだった。「あの事件はもう方がついたものだと思っていたんだけど」


「きみは、本当に自殺だったと思う?」


「質問の意図がわからないな。愛理はカフェインのオーバードーズで死んだ。それも鍵のかかった部屋の中でね。自殺以外は考えられないだろう。亀口は、あれが殺人だったとでも?」


「その可能性も否定はできない、かな」


 適当に思わせぶりなことを言ってみて反応を伺うが、彼は顔色ひとつ変える様子がなかった。


「そっか、僕はそうは思わないけど。仕方ないから協力するよ。日向さんの頼みを無下にはできないからね」


 理由はなんであれ聴取に応じてくれるならそれでよしとして、僕はまず、事件当日の出来事をおさらいした。


 午後八時に四人はこの場所へ集まった。上井戸愛理が飛び出して収録部屋に閉じこもり、内から鍵をかけたのがその三十分後。九時前に日向さんがトイレに立ち、帰ってくるまでに五分以上かかった。九時半頃に新垣も部屋を出たが、こちらは戻るまでに一分とかからなかった。その後は誰も部屋を出ず、十時にオーソンが様子を見に行ったが、呼びかけても反応がないので鍵を取りに戻り、三人揃って収録部屋に踏み込んでみると愛理さんが倒れていた。近くのテーブルには、彼女が持ち込んだチューハイの缶と、オーソンのカフェイン錠。少し離れたところに画面の割れたスマホが落ちていた。


 全て他の二人と同じように訊いたが、話が矛盾するところはなかった。付け足しておくべきことがあるとすれば、鍵はやはり一本しかなく、かつ複製が容易でないディンプルキーであること。それから、オーソンは机の上が見える位置にいたものの、新垣が部屋を出ていた間は鍵の有無を確認しなかったということ。そのくらいだろうか。


「まず気になるのはカフェイン錠なんだけど、どうして収録部屋に?」


「何かに集中したい時にはいつも飲んでるんだよ。だから、大抵はこの部屋に、たまに収録部屋に置いてある。半ばカフェイン中毒でね、やめられなくて困るよ。あの日は確か、既に動き始めてた九千ハルをプロデュースする計画の打ち合わせがあったんだ。収録部屋のパソコンから通話してたから、その前に飲んだんだったと思うよ」


 オーソンは退屈そうに言った。が、これは重要な発言だ。カフェイン錠の置き場所が不規則に変わっていたなら、本人以外は収録部屋にあることを事前に知り得なかったということになるからだ。


「愛理さんが自らカフェインを飲んで亡くなったのだとすると、その動機として今のところ考えられているのは、新垣や日向さんと言い争ったことと、SNSでの発言に否定的な意見が寄せられていたこと。そうだね?」


「ああ、そんなとこだと思う。特にSNSは結構荒れていたからね」


「でもそれは、事件以前からだったんでしょ? いきなり自殺を決意させる要因としては弱いんじゃないかな。新垣に言わせれば、『気に入らないやつはミュートなりブロックなりしときゃ良いだけのこと』だそうだけど」


「そうかな……。二人に責められたことと重なれば、自殺もあり得ないことではないんじゃないか」


「なるほどね」納得はできないが、とりあえず話を先へ進める。「そのアカウントにはオーソンもログインできたらしいけど、それはなんのために?」


「魔理衣メリーが活動していた頃からそうだったからだよ。彼女の発言を監視したり、他のVとのコラボとか、予定を管理するためにね。エリィの方ではその必要もなかったんだけど、まあ、惰性のようなものかな。どちらの場合も僕自身が投稿することはなかった」


「それ以外のことは何も?」


「ああ。他に何ができるっていうんだ?」


「愛理さんが収録部屋に閉じこもったのはこの時が初めてじゃなかったそうだね」


「え? ああ、そんなこともあったかな」オーソンは目を細くした。「急に話が飛ぶんだね。ひょっとして揺さぶりをかけられてるのかな」


「揺さぶりをかけられるようなことをした覚えがあるんだね」


 僕も冗談めかして言った。


「はは、なかなか良い性格をしてるよ、亀口。——で、以前に愛理が収録部屋に閉じこもった時の話だね。あれは配信でホラーゲームの実況をやらせた時だったんだけど、想定していたより余裕がなくなっちゃったらしくてね、メリーであることを忘れかけてたから、少し厳しいことを言った気がするよ。あれは僕自身が反省すべきことでもあったのに」


「日向さんはそれを知っていたから、事件の日の展開も予想できたことだと言っていたよ」


「そうだね。あの二人はかなり根に持ってたみたいだし、喧嘩になるのも、愛理が立てこもるのも、必然だったのかもしれない」オーソンはわざとらしくため息をついた。「その状況を作ったのは僕なわけだから、責任を問われたら言い逃れはできないね」


「きみはどう思ってたのかな、藍藤エリィについて」


「どうと言われても困るんだけど……。怒る気にもなれなかった、かな。呆れたよ、僕がどれだけ本気だったかを知っていてあの仕打ちなんだから」


「なら、どうして彼女に協力を?」


「それでも愛理は理想の声だったから」


 オーソンは遠い目をしていた。たまたま耳に入った声をずっと覚えていて、再び見かけるなりバーチャルアイドルをやらないかと口説きに行った。それほど入れ込んだ声の主である上井戸愛理の死を、彼はどう受け止めたのだろう。


「愛理さんから家庭の事情を聞いたことはある?」


「ないと思うけど、なんで?」


「いや、ないならいいんだ。——えっと、オーソンが魔理衣メリープロジェクトを立ち上げようと思ったのはどうして? きみにとって魔理衣メリーとはなんだったのかな」


「それは、自分の好きなことを仕事として成り立たせ……。いや、こんな取って付けたような受け答えをしてもしょうがないか」


 彼はゆるゆるとかぶりを振ると、僕の方を見た。瞳を動かさず、瞬きすらせず、真っ直ぐにこちらの目を見つめてくる。


「な、何か?」


「いやね、どうもきみには僕と近しいものを感じる気がするんだ。——僕が魔理衣メリーを生み出した本当の理由。誰にも理解されないだろうと思って話したことがなかったんだけど、亀口ならわかってくれるかもしない」


「はあ」


 オーソンは前のめりになった。今度は僅かに、ではなく、あからさまに、だ。


「きみは、リアルの人間なんてつまらないと思ったことはないか? フィクションの世界と比べてなんと退屈なことかと欠伸をしたことがあるんじゃないか?」


「何を言って——」


「あるんだろ?」彼はまだ目を逸らさない。「だからきみは小説を読むんだ。だから僕は映画を見るんだよ。しかし残念ながら、フィクションはフィクションなんだ。その世界の住人は、物語が始まってから終わるまでの間しか生きられない。続編が作られない限りはね。それにしたってどのみち短い命だよ。——だけどもし、彼らを生きた人格として活動させることができるとしたら?」


 すぐには彼が何を言っているのか理解できなかった。が、それが魔理衣メリーの持つ性質と結びついた時、僕は愕然とした。


「きみは、虚構を現実に持ち込もうとしたのか……」


「あくまで仮想的に、だけどね」オーソンは笑った。「魔理衣メリーは僕にとって理想の女性だったんだ。物語の中でしか生きられないような完璧な人間さ。僕はそんな彼女をこの手で生かそうとしたんだ。複数の人間の良い部分を組み合わせることで、完全な新しい人格に生命を吹き込んだんだよ」


 僕は数年前に読んだある推理小説を思い出していた。何人分もの女性のパーツをつぎはぎして理想の女アゾートを作る。


「まるで『占星術殺人事件』だ」


「占星術? 残念ながらなんのことかわからないな。けど、似てる、ということなら『フランケンシュタイン』なんじゃないかと僕は思うよ。ジェームズ・ホエール監督のね。博士は研究に取り憑かれて、いくつもの人間の部分から生命を創造しようとしたんだったか。うん、どうもこの手の試みはいずれも不完全に終わる運命のようだ。少しおつむが足りなかったり、手がハサミのままだったり。僕の場合は、声の定着に失敗してしまったらしい」


 過去を惜しむように、オーソンは言った。彼の目はまだこちらに向けられていたが、僕のことはもう見えていなかった。まるで現実の世界に焦点が合っていないかのようだ。


「わからない、僕にはわからないよ……」


「そうか、残念だな」


 彼は本当に残念そうな顔をして乗り出していた上体を引っ込めると、おもむろに立ち上がった。暗に、なら話はこれで打ち切りだ、と言っているようだ。


「ありがとう、面白い話だったよ」


 完全に相手のペースに飲まれていたが、漸く頭に血が通ってくるのを感じる。


「これで言うべきことは言ったと思うんだけど、結論は出た?」


「その前に、いちおう収録部屋っていうのを見せてもらえるかな」


「どうぞお好きなように」


 オーソンは気だるげにのろのろ歩いて、開けっぱなしにしてあったドアから廊下に出た。僕もあとに続いて収録部屋へ向かう。


 だが、本当はもうその必要もないだろうという気がしていた。おそらく、推理に必要な手がかりは既に出そろっている。〈読者への挑戦〉を挿入するなら、ここだ。

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