第3話

 図書館は高い所に立地しているため、向かうには何十段もの階段を登る必要があった。その上、エントランスは四階にある。四階から入るというと奇妙に思われるかもしれないが、やたら高低差の大きいキャンパス内においては、地面と接している階が一階だけでないのは珍しいことではなかった。


 先輩を待たせるわけにもいかず、結局何も胃に入れられなかったのはある意味さいわいだった。食後にこれだけの運動を強いられていれば、戻さずにいられた自信がない。


 半ば息を切らし、額に汗を浮かべて、漸く目的地にたどり着いた僕はラウンジを見渡した。電話では、僕の名前も服装も、新垣は何一つ伝えていなかった。こちらも相手のことをほとんど知らないわけで、互いに見つけられなかったらどうしようかと道中心配しながら来たのだが、どうやらそれは杞憂だったようだ。


 待合スペースのカウンター椅子の近くに、何故か座らず立ち尽くしている男がいた。微妙に丈の合わないジーンズに、チェック柄のシャツ。体型は中肉中背で、眼鏡は四角い黒縁の眼鏡。寝癖を気にするように頭に手をやりながら、ちらちらとこちらの様子を伺っている。彼が袋衣日向で間違いないだろう。


 僕は軽く息を整えてから歩み寄った。


「あの、日向さんですか?」


 彼はまるで気づいていなかったというふうを装って、緩慢にこちらを振り向いた。


「ああ……えー、きみが護くんの言ってた人だね? 事件のことを訊きたいとかいう。あのね、きみは面白おかしくやってるのかもしれないけど、俺らにとってはあんまり愉快なことじゃないんだよ。人が一人亡くなってるってわかってるのかな? 少しは良識的に判断して——」


 謂れのない捲し立てるようなお説教に呆気に取られながら、僕は察した。袋衣日向はあまりコミュニケーションが得意な人物ではないのだと。それも、喋れないのではなく、一方的に喋りすぎてしまうタイプの。


「すみません、そうではなくてですね——」


 僕はいきさつを説明した。


「あっ、えっ、新垣くんが?……そうなんだ、ごめんよ。その、最近、興味本位で色々訊いてくるやつが多くて、俺もちょっと苛ついてて、てっきり……。えっと、きみ、名前は?」


「亀口辰巳です」


「亀口くん。俺にできる範囲でなら、是非とも協力させてもらうよ。えー、立ち話もあれだから、どうぞ、こっちに座って」


「はあ、どうも」


 窓の方を向いたカウンター席に、僕と日向さんは横並びで座った。やたら高地にあるだけに、ここから望める景色は悪くない。


「えっと、ほんとにごめんね。何か飲みもの買ってこようか? 外、暑かったでしょ」


「いえ、大丈夫です。こちらこそお時間を取らせてしまって申し訳ありません」


「きみは新垣くんに頼まれただけなんだから別に謝らなくても。俺ももうレポートのために探してた本は見つけたから、時間は全然問題ないし……。えー、なんでも訊いて?」


 僕はまず、基本的な人間関係や事件当日の出来事などを確認した。が、これは新垣から聞かされた話と矛盾するようなところはなく、特に記憶を訂正する必要もなかった。


 続けて、新垣に訊き損ねたことを訊いてみる。


「事件当日の話し合いの予定はいつ決まったんですか?」


「二日前。オーソンくんがグループチャットで呼びかけたのが二日前だったね」


「愛理さんは話し合いの途中で抜け出して閉じこもってしまったそうですが、そういう展開は予想できたことだと思いますか?」


 日向さんは眼鏡のつるに手をやり、斜め上を睨んで「うーん」と唸った。


「予想できた、かもしれないかな。以前にも同じようなことがあったんだよ。たしか、オーソンくんが配信中の口調についてきつく注意したんだったと思うけど、その時も収録部屋に閉じこもってたね」


「その収録部屋の鍵というのは一本だけしかないんですよね」


「えー、オーソンくんが絶対に持ち出させなかったから合鍵とかはないと思うよ。彼自身もそんなことはしないはずだしね。そもそもなんのために鍵があるかって、収録中に誰かが部屋に闖入してくることがないようにするため、フフッ、親フラってやつだね。一本だけの鍵をオーソンくんが管理しているからこそ——」


「愛理さんが閉じこもってからなんですが」放っておくと延々話し続けそうなので途中で遮った。「その間、新垣がずっと鍵の前にいたそうですね。では、新垣が部屋を出た時、鍵はどこにありましたか?」


「どうだろう……。俺は床の座椅子に座っていて机の上は見えなかったから。新垣くんが持ち出すなんてことはないと思うけど」


「倒れていた愛理さんから少し離れたところに彼女のスマホが落ちていたそうですが、このスマホの画面が割れていたのはもとからでしたか?」


「いや、閉じこもる前は割れてなかったんじゃないかと」


 僕は見取り図の横のメモを増やしながら、今度は彼自身のことについて訊いてみる。


「日向さんは、魔理衣メリープロジェクトでイラストとゲームのプレイを担当されていたんですよね?」


「うん、そうだね。ゲームの方はいつも通りやるだけだったから良かったけど、イラストは大変だったよ。メリーの立ち絵なんかはもちろんのこと、サムネでよく使ってるデフォルメキャラや、果てはロゴのデザインまでやらされてね。しかも、オーソンくんのイメージ通りのものができるまで、何度でもやり直しさせられて。なんせ魔理衣メリー自身が描いたものっていう設定を守らなきゃいけないから。フフッ。それでも、みんなで一つのものを作り上げる感じが楽しくて、全然苦ではなかったんだけど」


「ああ、そこのところが僕には理解できないんです。魔理衣メリーという人物を分担して作り上げる、ということですが、こうまで極端にやると、見る側からしてもその仕組みがわかってしまうのではないかと思うんです」


「えー、なんて言ったらいいかな。確かに気づかれてたと思うし、実際そういう指摘をするコメントが動画に寄せられることもあったね。でも、こういう言い方で合ってるかわからないけど、V界隈においては、それはそういうものとして受け入れられているんじゃないかと、俺は思う」


「V界隈?」


「あっ、ごめん。VはバーチャルのVだよ。メリーのような活動をする人をまとめてそう呼ぶんだ。Vたちは皆、程度の差こそあれ、マンガやアニメのキャラクターのような性質を持っているんじゃないかな。つまり、リアルな人間としてではなく、モデルや声やキャラ設定やなんかから構成される、仮想の人格を想定しているということで……。えー、あれが例としてはわかりやすいかな。最近オーソンくんが新たにプロデュースで携わってるっていう——」


 そう言って彼が取り出したのは、やはりスマホだった。日向さんは新垣と同じように何かを検索すると、テーブルの、ちょうど二人の中間の位置にスマホを置いた。今回画面の中にいたのは、サイボーグじみたメカニックなデザインの少女だった。


「彼女の名前は九千くせんハル。見た目からある程度察しがつくかもしれないけど、ハルちゃんは、自身が人工知能だと言い張って譲らないんだ。声も、機械的な合成音声だとね。もちろんそんなはずはないし、ちゃんと声優がいるに決まってる。だけど、それが余りにも当然のことだから、見る側もあえて指摘したりしない。設定の矛盾にツッコミを入れたりはするけどね」


「はあ、なんとなくわかりましたよ。『それはそういうものとして受け入れられている』んですね」


「うん。同じことがメリーについても言えるんじゃないかな。現実的ではないと理解した上で、仮想の魔理衣メリーという人格を、ファンは気に入ってくれてたんだと思う。もちろん全ての人がそうではないし、単に上井戸さんの声が好きだった人も多かったみたいだけど。藍藤エリィをフォローした一万人はそういう人たちなんだろうね。でも逆に、引き継がれなかった残りの二万人は、やっぱり魔理衣メリーだからこそ好きだったんじゃないかな」


 抽象的で掴み所がない話だが、雰囲気だけは理解できた。どうも、バーチャルの世界は自分が思っていたよりずっと奥が深いらしい。


 面白い、そう思ってしまっている自分がいた。いつのまにか僕は、この事件に興味を引かれつつあるようだった。


「愛理さんが藍藤エリィとして活動を始めてからのファンの反応を教えてください。特に、SNSの様子について」


「初期の頃は、擁護したり応援したり、そういう肯定的なコメントが大半だったかな。けど、僕ら元メンバーに対する彼女の態度を非難する声だったり、エリィになってからつまらなくなったっていう意見が徐々に増えていってね。上井戸さんが亡くなる頃には、ちょうど半々か、否定的な方が少し多いくらいになっていたと思う」


「日向さん自身はどう思っていましたか? 新垣は怒り心頭だったみたいですが」


「そりゃ怒るよ。いや、新垣くんは一年間の作品を全部なかったことにしたみたいだけど、俺の場合はある意味もっと深刻でね。なかったことにするっていう選択肢すらなかったんだ」


「というと?」


「魔理衣メリープロジェクトが始まる以前から俺は同人活動をしていたんだよ。もともと漫研にいたっていうのは知ってるんでしょ? 絵っていうのはね、音楽とかと比べても、作り手のくせが出やすいものだと思うんだ。瞳の描き方、影の塗り方、ときには絵の構図だけで、あ、あの絵師が描いたものだな、ってわかることもあるし。俺の場合は髪をやたら細かく描き込むくせがあって、メリーが活動していた頃からすでに、誰が描いてるのか感づいてる人もいたんだよね。それがエリィの出現で決定的になってしまった、ということで」


 日向さんはガシガシと頭をかいた。


「なるほど。藍藤エリィが悪口を言えば、それが日向さんの評判に直接影響を与える状況だったんですね」


「名指しで非難こそしなったものの、まあ、実質的にはそういうことになるかな」


 彼は新垣のように、話しながらはっきりと怒りを露わにすることはなかったが、これはより強力な動機になり得るだろうと僕は思った。上井戸愛理が生きている限り、自分の作品を貶められ続ける可能性があったのだ。


「でも良いんだよ、俺が絵や漫画を描くのはただの趣味だから。新垣くんやオーソンくんのように仕事にしようとまでは思ってないんだ。——それにね、上井戸さんも可哀想だったんだよ。もちろんあんなやり方はあんまりだけど、それでも同情の余地はあると思うんだよね」


「同情の余地、ですか。確か、愛理さんが魔理衣メリーを辞めたのは好きに喋らせてもらえなかったからだとか、新垣はそう言ってましたが」


「うーん、そういう言い方をするとただの自分勝手みたいだけど……。上井戸さんにはね、自分を表現する場が必要だったと俺は思うんだよ。以前、少しだけ自分の家庭のことを話してくれたことがあったんだけど、彼女にはお兄さんが一人いて、この人との関係に問題があるというか——」


「悪い人なんですか?」


「いや、良い人らしい。というより、むしろ良い人すぎたんだね。性格も良い、顔も良い、運動も勉強も、何をやらせても優秀。今は大学病院で研修医をやってるんだとか」


「まるで魔理衣メリーみたいですね。完璧な人間という意味で」


「うん、だからこそオーソンくんの誘いを二つ返事で快諾したんじゃないかな、と。上井戸さんはそのお兄さんと比べられることが多くて、ずっと劣等感を抱いていたと思うんだ。両親からもあまり期待されていなかったみたいだし。きっと、上井戸さんは自分の存在を主張したかったんだよ。しかし、もう理解してもらえたかと思うけど、魔理衣メリープロジェクトは全く新しい仮想の人格を作るプロジェクトだったんだ。上井戸愛理として話すことは許されない」


「はあ、自分の人格が無視されている、とはそういう意味だったんですね」


 日向さんは少し寂しげに頷いた。


「一方で、エリィに転生してからの彼女は生き生きとしていたよ。自分のやりたいことをやって、話したいことを話して、ね。それだけ我慢させてたんだと思うと、申し訳ない気持ちにもなるよ……。きみは気づいているのかな、『藍藤エリィ』というのは——」


「そのことならちゃんと気づいているつもりです。日向さんの話を聞いて、それにどういう意味があるのかも理解できたような気がします」


「そうか、探偵なんだね、亀口くんは……。どうかな、謎は解けそうかい?」


「いえ、だいぶ見えてきた気はするんですが——」


 恐らくまだ、推理に必要な情報が出そろっていない。この事件を理解するには、やはりどうしても話を聞かなければならない人物がいるようだ。


 だが、何故僕がそこまでしてやらなくてはならないのだろうか。仮に謎が解けたとして、僕は何も得をすることがない。せいぜい新垣を喜ばせるだけだろう。これ以上踏み込むのは、馬鹿のすることだ。


 頭の片隅で冷静な自分がそう言うのを聞きながら、しかし僕はもう踏みとどまることができなかった。


「すみません、日向さん。オーソンに連絡をとってもらうことって、できますか?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る