第五幕 影

 タクシーが止まり、見上げた先に高層マンションがそびえ立つ。

 サウスフロント――最上階に畑中家はある。


 途中のフロアには点々と灯りが付いている。

 足は鉛のように重たい。


 エントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。

 ボタンを押す指は震え、数字がひとつ上がるごとに心臓が跳ねた。


 扉が開く。

 玄関先で出迎えた義父母の姿は、離婚のときの毅然としたそれとはまるで違っていた。

 土気色した顔、焦点が合わない目。

 二人とも生気が感じられない。


「……すまない」


 義父がかすれ声を絞り出し頭を下げる。

 その背中は小さく、頼りなかった。


「美月は……」


 理解できるはずがなかった。

 耳に届いても、頭が拒んだ。


 ただ「すまない」と繰り返し土下座する義父。


 リビングに足を踏み入れた瞬間、全身が硬直した。


 遺影。


 白い花に囲まれほほ笑む美月。

 結婚式に撮った写真だった。

 写真の中で静かに幸せそうに微笑んでいる。


「……美月」


 声が掠れ言葉にならない。

 線香の煙が細く立ち上り、鼻の奥を刺激する。


 どれくらい固っていたか。


「どうして……」


 思わず義父母に詰め寄った。

 声が震え、感情を押し殺すことができなかった。


「どうして美月は飛び降りた!どうして、こんな……」


 義母は椅子に座ったまま、両手で顔を覆った。

 涙が指の隙間から流れ落ち、嗚咽が漏れる。


 義父は膝をつき、額を床に擦りつける。


「美月のためだと……思っていた。間違っていないと……信じていた」


「それが何で!」


「すまない……次の、再婚相手に……美月を任せようとした」


「はぁ?」


 義父の声は、途切れ途切れだった。

 その言葉は謝罪のようでいて、どこか自己弁護にも聞こえた。

 耳に届くたび、胸の奥を鋭く引き裂かれる。


「美月のために……未来を守ろうと……」


 美月ため?

 美月の未来?

 守ろうとしたものが、美月を追い詰めて……いったい何だというのか。


「未来を守る?それで美月を追い詰めたのか!」


 叫びは震え、胸を裂いた。

 視界が揺れ、立っているのもやっとだった。


 ふと、遺影に目をやった。

 遺影の前に小さな革のキーホルダーが置かれていた。


 軽井沢で作った、お揃いの品。

 黒い染みがところどころに残っていた。


「……最期まで握っていたの」


 義母が震える声で告げる。


 息が詰まった。

 ポケットから財布を取り出し、片割れを並べる。

 二つのキーホルダー。

 色は少し変わり、傷もついていたけれど、確かに「一緒に生きる」と誓った証。


(……最後まで、俺を愛してくれていた)


 守ると誓ったのに。

 幸せにすると決めたのに。

 俺が追い詰め、手放し、命を奪った。


(……守れなかった)


 足から力が抜け、床に膝をついた。

 涙が流れ、嗚咽が漏れる。

 何を言っているかも分からない絶叫を上げた。


 脳裏に浮かぶ結婚式。

 白いドレスに身を包み、バージンロードを歩く美月。

 言葉にせずとも『愛してる』と伝わったあの幸福の瞬間。


 今や、その笑顔は遺影の中にしかない。

 永遠に触れることはできない。


 ◆ ◆ ◆


 季節がひとつ巡った。

 けれど、俺の時間は止まったままだった。


 美月を失ってから数か月。

 朝が来ても布団から出られず、会社に行くことができなくなった。


 休職をしていたが、結局は退職した。

 残ったのは何もない。

 しがらみのない時間があるだけだった。


 マンションは賃貸に回し、仲介業者に依頼した。

 残された思い出を直視する勇気は、もうなかった。


 実家に戻ると、母は黙って茶を出した。

 父も多くを語らなかった。

 ただ「戻ってきたか」と一言。

 無言の空気は安らぎであり、同時に逃げ場をふさいでいた。


 妹・彩花の病状は、緩やかに進行していった。


 歩行が難しくなり、入院生活が日常になった。


「悠真……一緒にいてやってくれる?」


 母の体力も限界が近づき、俺は病院に通い詰めるようになった。

 母の声は弱々しかった。

 俺は頷いた。


 白いシーツ、薬品の匂い、点滴の滴る音。

 翔を思い出す。


 そこにいる彩花はもっと辛いだろう。

 笑顔を作ろうとするが、どこか痛々しい。


「お兄ちゃん、今日も来てくれたんだ」


「ああ、当たり前だろ」


 軽口を装ってみせるが、自分でも分かっていた。

 声に力がなく笑顔も引きつっている。


 彩花が眠ると、窓際に腰を下ろす。

 ガラス越しに差し込む光が病室を明るくする。


 無意識に財布を取り出す。

 何度も触ったキーホルダーは、かなりくたびれている。

 それでも、指に馴染む感触はあの日のまま。


(美月……)


 心の奥で名前を呼ぶ。

 そして問いかけてしまう。


(ここにいたら、俺に何て言ってくれるだろう)


 弱音を笑って叱るか。

 それても、泣きながら一緒に背負ってくれるのか。


 胸が軋み呼吸が詰まる。

 答えはもう返ってこない。


 ある夕暮れ。

 彩花が細い声で言った。


「お兄ちゃん……ごめんなさい」


 一瞬、言葉が喉に詰まった。

 遺伝なのだ。

 だれの責任でもない。

 分かってる。

 それでも無理に笑って答える。


「ああ、謝ることなんてない……俺は大丈夫だ」


 空っぽな声。

 彩花も気付いたように、静かに目を閉じた。


(俺の未来はもうない。美月と一緒にあるはずだった未来は……全部消えた)


 握りしめたキーホルダーが、夕陽を反射してかすかに光った。

 弱々しくても、確かにここにある光。


(愛してる、美月……)


 声には出さず、心で呟く。

 それだけが、俺を繋ぎとめる最後の鎖だった。


 夕陽が病室を紅く染め上げた。


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壊れた一途 とと @toto3haha3

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