……冑の下の……

 「“犬神家カレー”、大盛」

 男の声で告げられた。風邪でもひいて喉を傷めているのか、しゃがれたような、かすれたような、独特の声だった。

 すぐさま「はいよー、犬神、一丁、大盛」と厨房から女の声が応じた。

 迷いなく注文する様子からすると、どうやら常連らしい。カレーは無難に思えたし、足繁く通っている雰囲気の人物が頼むのだから、美味いのだろう。

 だが、犬神家という不可解なワードが気になって仕方ない。

 ほめられたことではないが、私は男の元に謎のカレーが届くのを見届けることにした。料理はすぐに運ばれてきた。

 白飯がまったく見えないほど、たっぷりとカレーが注がれている。粘り気のない、さらりとしたシャバシャバ系ということもあり、まるでカレーの湖だ。

 二本の白い角のようなものがにょっきりとカレーの水面から突き出ている。

(あのトッピングはなんだ? ネギ? 骨付き肉?)

 奇怪な角の正体を見極めようと、私は首を回して皿を追いかけた。そして、驚愕のあまり蒼褪めることとなる。

 男は顔に奇妙な質感の覆面のようなものをつけていたからだ。

(ラバーマスク? あれで飯が食えるのか?)

 男と目があったので、慌てて顔を戻した。

「お決まりですか」

 カレーを届けた店員から尋ねられる。

「あの、あれなんですか? “むざんやな冑の下のきりぎりす”って」

 私は壁に貼り付けてある短冊を指差した。五・七・五だし、芭蕉か其角か誰かの句にも思えたが、八〇〇円とあるから、メニュー名なのだろう。

(きりぎりすって、『アリとキリギリス』の? 昆虫食? 確かに“女王蜂そば”なんてのもメニューにあったけれど、まさかな)

 港区あたりの奇抜さが売りの気取った店か、NASAの社員食堂ならともかく、こんな古びた食堂に昆虫食はないだろう。

「はーい、冑一丁」

 店員は厨房に向かって声を張り上げた。

(待て、待て待て。訊いただけだぞ。頼むなんて一言も言っていないぞ)

 抗議したい気持ちはあったが、今さら、注文を取り消す勇気はなかった。いや、正確には注文をしたつもりではないのだが。

 私の心中など知る由もない少女たちは、無邪気におしゃべりに興じている。

「“三本指の男のオムライス”いうから、わて、てっきり人差し指と中指と薬指やと思うとったわ」

「あほらしい。花ちゃん、それナックルの握りやないの」

「雪枝ちゃん、それ、ナックルとちがうわ。パームやないの」

「月代姉ちゃん、パームってなんやの」

 鈴が鳴るというか、鶯が鳴くというか、とにかく騒がしい。

 面妖な覆面男が勘定を済ませて出て行った後、ようやく、私のもとに食事が運ばれてきた。

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