第2話 ここから始まる

 閉じている瞼の向こう側が明るいと感じる。

 瞼の中を迸る血潮が、瞼を透け網膜に差す光を微かに赤くしていた。

 朝なのだと、ルイは身体をベッドから起こした。

 意識がはっきりしだすと、部屋の外から母親らしき足音がしているのが分かった。いつもの事ではあるが、忙しなそうに家の中を行ったり来たりしている。父親らしき足音はしない。まだ寝ているのか、机でコーヒーでも飲んでいるのか。父親は母親と違って朝はとてもゆったりと過ごす。朝に弱いのだ。

 ルイはベッドから出、特段急ぐわけでもゆったりとするわけでもなく服を着替える。いつもなら汚れても良い、作業用の服に着替えて母親の家事や父親の鍛冶仕事を手伝うのだが、今日はいつもの朝ではない。そして、いつもの一日でもない。

 事前に母親が部屋に置いておいてくれたのであろう、ルイの家にある中で一番綺麗かつ正装に近しい服に袖を通す。少し硬くて、動きづらい。が、ルイならすぐ慣れるであろう。ルイ自身もそう思っていた。


――――コンコンコン


 不意に部屋の扉がノックされる。


「ルイ、入るぞ」


 低く、優しい声の主はそう言うと、ルイの返事を待たずに扉を開けた。


「父さん。それノックの意味ないよね」


「ん?あぁ、すまんすまん」


 父親はどこか緊張している面持ちだった。何がというわけではないがどこか落ち着きがない。しきりに腰のあたりをさすっているし、処理されていない無精ひげを絶え間なく弄っている。そろそろ整えたほうが良い程度には伸びていて、顔の下半分はほぼ髭だ。


「ところで、準備はできているか?」


 父親は髭をさすりながら聞いた。

 なぜ自分ではなく父親が緊張する必要があるのか、ルイは疑問に思いながら答えた。


「うん。今着替え終わったところ」


「そうか。うん、よく似合っているぞ」


 それだけ言うと父親は部屋を出ていった。

 ルイも後を追うように部屋を出、居間のテーブルに着く。座った正面の窓から朝日が差し込んで心地よく眩しい。開け放たれた窓から入り込むそよ風が花の香りを運んできた。まさしく春。もう冬は終わったのだとルイは感じた。


「ルイ!よく似合ってるじゃないのさ!これならギルド長に会っても失礼がないかねぇ!」


 言いながら、母親が朝食を運んできた。


「ありがとう母さん」


「ほら、さっさと食べてさっさとナポリスに向かいな!行動は早ければ早いほどいいからねぇ」


 行動は早ければ早いほどいい。これは母親の口癖であり、モットーだ。行動に移すまでのスピードは早いほうが良いということらしいが、母親は何故か行動自体も速く、忙しない。


「そうだね。でもこれはゆっくり食べるよ」


「あぁ!味わって食べな!」


 いただきます。と、小さく声に出す。

 パンをちぎり頬張る。何度か租借し、小さくなったパンを流し込むようにスープに口を付ける。温かく、程よく味の付いたスープが舌の上を滑り喉へ流れていく。そしてまたパンをちぎる。

 

「ごちそうさま」


 今度は母親に聞こえるようにルイは言った。

 母親の反応は無いが、構わない。ルイはそのまま席を立ち、皿を重ね台所へと持っていく。そこでは既に洗い物をしている母がいた。


「ごちそうさま」


 もう一度ルイは言う。


「あいよ」


 母は優しく独り言のように呟いた。


「それじゃあ、行ってくる」


「気を付けてね」


「うん」


 母はルイの方を向かず、ただ皿と向き合いながら微笑んだ。

 ルイは玄関へと向かう。玄関前にはこれまた事前に母が準備してくれていたであろう旅支度詰め込まれた背負いカバンが置いてある。本当に用意がいい人だ。


「ボン」


 呼ばれてルイは振り返る。

 父の顔に緊張はもう浮かんでおらず、そこには子を送り出す父親が立っていた。

 

「はい」


 ルイは改まって返事をする。なぜかは分からないが、そうした方がいいように思ったからだ。


「なぜお前がギルドに呼び出されたのかは分からんが、恐らく異能絡みであることは間違いないだろう。あそこのギルド長は優秀な指導者であると噂をよく耳にする。もしかしたら、今日という日がお前の人生の分かれ道になるかもしれん」


 父は神妙な顔をしていた。その眼はまっすぐルイを見つめていて、重々しかった。

 たいそうなことを言うものだなとルイは思った。ルイは何も期待しちゃいないし、何かがあるとも考えていない。考えられない。何かが変わるかもなんて、期待に似た何かなんて、持とうと思わない。


「とにかく、それくらいの心持ちで臨みなさいということだ。準備さえしてれば、何が起こっても対応できるだろう。お前なら」


「……はい」


 返事に間が空いたのは、返事をしていいものか戸惑ったからだ。ルイにとって、お前なら、なんて言われたのは生まれて初めてだった。

 ルイは父の言葉を反芻しながら玄関を押し開けた。


「気をつけてな」


「行ってきます」


 背中越しに父の言葉を聞いた。

 何かが変わるだろうなんて考えない。ただ、心の準備だけはしておこう。ルイはそう思った。

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