第11話

 翌日はシフトが無かったため、昼まで寝て過ごすつもりだった。

 しかし惰眠だみんむさぼる僕を、ロクは許してはくれない。


 すっかり深い眠りに沈み込んでいた僕の呼吸は、突然苦しくなる。そればかりか、顔の辺りが重たい。

 すぐに見当がついた。ロクが僕の顔の上で丸くなっているのだ。


 上体を起こすとともに、顔の上のロクを両手に抱える。新鮮な空気をいっぱいに吸い込むと、ロクが小さな声を上げる。

 僕はロクに苦情を伝える。


「ロク、苦しいよ」


 ロクは僕の手を離れ、何か訴えるように玄関に向かう。どうやら散歩に連れて行って欲しいようだった。

 元来ロクはそれほど活動的な方ではない。それなのに前回に引き続き、今日も散歩をねだっている。でもそれも良い。ロクは健康的に育っている証だ。


 仕方なく顔を洗い、歯を磨き、手早く身支度を済ませる。時計の針を確認すると朝の九時を少し過ぎた辺りだった。まてよ、まだ一時間しか眠ってはいないじゃないか。


 リードを装着し、ロクとアパートの前に駆け出す。

 郵便局の角から、颯爽と通りに出るロクを追いかける。

 こうして歩き出してみると、朝の空気もそれなりに清々しく思えた。

 つい数時間前まで勤務していたコンビニを通り過ぎ、公園に至る。今回もロクの目的はこの公園だったようだ。


 ロクの気の向くままにリードを伸ばすと、ベンチの前の陽だまりで彼は立ち止る。ロクはおもむろに尻を着き、勢いそのままに丸くなり、日向ぼっこを始める。

 僕はベンチに腰かけて、気持ち良さそうに目を閉じるロクを眺めた。


 学校へ向かう子供や会社に出勤する大人たちも、一旦息をひそめる午前9時過ぎたひと時。公園で猫のリードを握りしめ、ベンチで佇む29歳の僕。

 穏やかな風が頬を撫で、気温は少しずつ上昇しているようだった。

 空を見上げると夏の分厚い雲がゆっくりと流れて行く。

 平和だなぁ~。そんな事を考えて雲を眺めていると、突然背中から声を掛けられる。驚いて振り返ると、例の女性が真後ろで僕を呼んでいた。


「あら、コンビニの店員さん。それから…」


「ロクちゃんです!」


 僕は例のごとく答える。

 女性はまたクスリと笑い、口元に手を当てる。

 何と言って良いものか、僕はとりあえず、昨日の来店の礼を述べる。


「昨晩はどうも」


「いえ、こちらこそ。あんなに遅い時間まで働いて、朝からネコちゃんのお散歩?」


「ロクが連れて行けってうるさいものですから」


「優しいご主人様だね」


 女性はロクに向かって微笑む。僕はすかさず訂正する。


「いえ、ご主人様はロクの方です。そして僕は使用人って感じです」


 彼女はまた笑い、ロクのそばに歩み出て、しゃがみ込む。それからロクの頭を撫で、そのまま顎の下をくすぐる。僕にも聞こえるくらい、ロクは満足げに喉を鳴らす。ロクが僕以外の人間に、これほど気を許す姿を、初めて見た気がした。

 僕は女性に訊ねる。


「ずいぶん猫に慣れてるみたいですね」


「以前、少しだけ飼ってたことがあるから。ちょうどロクちゃんと同じ黒猫。でも突然いなくなってしまって…。今のロクちゃんよりもっと小さな時で、まだ子猫だった…。散々探し回ったし、保健所にも毎日問い合わせたんだけど…」


 僕は思い至り、彼女に訊ねる。


「実はロクは拾い猫なんです。僕のアパートの階段の踊り場で丸くなっていて。半年前、まだ子猫の時…。もしかしてロクって、あなたの猫では…」


 彼女は困った顔を見せた後、にっこりと微笑む。


「そうだったらね…。でももう何年も前の話だから。私が子供の時のこと」


 女性はそこまで話すと、僕の隣を指さし、そこに掛けても良いかと僕に訊ねる。もちろんそれを拒絶する理由なんて僕には無い。

 僕たちはベンチで隣り合わせ、しばらくお互いについて話した。


 高嶋原子たかしまもとこと、その女性は名乗った。"もとこ"という字は、原子と分子の原子と書くのだと、楽しそうに言う。この近所にある研究事務所で、最近働き始めたのだと教えてくれた。

 僕も自分の名を名乗り、今はすぐそこのコンビニの店員をしていると彼女に伝える。


「知ってるよ」


 彼女は笑って答えた。

 僕は彼女に訊ねる。


「それなら、もしかして最近この辺りに越してきたとか?」


「よく分かったね」


「コンビニの店員やってると、ほぼ同じお客さんばかり相手してるから。変わった御顔触れはそれなりに分かるんですよ。あなたを見たのは昨日が初めてだったから」


「へ〜、名推理!でもあのコンビニに行ったのは昨日が2度目だけど。前回は愛想の良いお姉さんがレジにいたかな」


 それはきっと田端さんだと僕は思った。

 ロクが足元から我々を眺めていた。

 僕がロクの頭を撫ぜると、ロクは僕の指先を舐めて返した。それを見た彼女が立ち上がる。


「そうだ、もう行かなくちゃ」


「仕事ですか?」


「そう、急ぎではないんだけど、あまり遅いとお爺ちゃんが心配するから」


 お爺ちゃん?

 仕事で?

 僕の頭にクエスチョンマークが浮かび上がると、彼女がロクの頭を撫でて僕に振り返る。


「また会いましょう。それから私の事は原子で良いから」


 それだけ言い残すと、彼女は公園を後にした。


「あ、はい…」


 僕の返事は彼女に届かない。

 呆ける僕をよそに、ロクが立ち上がり、後ろ脚に力を込めて伸びをする。ロクはどうやら帰りたいようだった。

 僕も立ち上がり、ロクの後をついて歩く。

 高嶋原子さん…。呟くと、ロクが短く鳴いて振り返る。

 強まり始める日差しを浴びながら、抗いきれない眠気を僕は感じていた。

 色々考えたいこともあったが、部屋に着いたらひとまず眠ろう。

 やっと、一日が終わるよ。ひたすら家路を急ぐロクの背中に訴えかけてみた。

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