2-2 やだ、この子逞しすぎるッ!
燕明は手に持っていた筆を取り落とし、眦が裂けそうなほどに目を見開いていた。
「それは本当か、藩季」
「ええ、おかげで太医院でも騒ぎになっておりまして」
「冗談だろう……げ、月英が拘束されるなどと……」
取り落とした筆を掴もうとしても、手が笑ってしまい指に弾かれた筆はどんどんと逃げいていく。
「悪い冗談……だよな……?」
下唇を噛み、藩季に向ける燕明の瞳は懇願を浮かべていた。
しかし、無情にも藩季の首は横に振られる。
「御史台だけではなく、もう大理寺まで動き始めております」
逃げた筆がとうとう執務机から落ち、床で音を立てて転がった。
掴むものを失った燕明の右手はしばらく机の上を彷徨い、そしてゆらゆらと己の前髪を握りつぶすことで落ち着く。
「……罪状は」
「申し訳ありません、まだそこまでは……。拘束されたという話を耳にして、まずは燕明様にと思いまして。もう少し調べてからお知らせするべきでした。私も……少なからず動揺しておりまして」
見れば、いつも緩やかな弧を描いている藩季の細い目は薄らと開き、奥に潜む瞳に険しさが見えた。
彼のこのように余裕のない顔を見たのは、いつぶりだろうか。
「いや、よく知らせてくれた。全容を掴もうとするうちに後手に回る方が悪い」
「しかし……たとえ何かを知っても私達が動くことは……っ」
燕明の奥歯がギリと軋んだ。
「何もできない……か」
前髪を握りつ潰す手が、そのまま頭に爪を立てていた。
痛みでも感じて紛らわしていないと、激情に任せて今すぐに飛び出していってしまいそうだ。
「クソッ……こういった時になにもできないのか……!」
もどかしさで憤死してしまいそうだ。
目だけを上げて映った視界では、藩季が身体の前で重ねた手に爪を立てているのが見えた。
彼も耐えているのだろう。
「今ばかりは、この地位が邪魔ですね」
燕明の飲み込んだ言葉を藩季が代弁した。
互いに立つ地位は権力を与えてはくれるが、同時に多くの自由と勝手を許しはしない。
「一医官の問題に、俺が介入するわけにはいかない」
「私達は見守るしかできないのですか……私の可愛い娘が……っ、苦しんでいるというのに」
藩季は胸を大きく膨らませ息を吸うと、ゆっくりと長い溜め息を吐き出していた。
その長さこそが、彼の苛立ちの大きさなのだろう。
「……いや」
燕明は前髪から手を離すと、姿勢を正した。
「介入はできないが、知ることはできる」
藩季の顔が上がる。
「俺は、今回の月英の拘束は間違いだと思っている」
驚きにさらに見開いていた目が、スッといつもの細さに戻る。
「当然です」
燕明は傍らに転がった筆を拾い上げ、机に置いた。
「刑部尚書の
◆◆◆
ガシャン、と耳障りな音をたてて鉄格子の扉に鍵が掛けられた。
「取り調べまで、ちゃんと正気を保っとくんだぞ」
「え、ちょっと待って! 急にどうしてこんな……っ!?」
月英を牢屋に押し込んだ衛兵達は「大人しくしてろよ」と言うと、月英の疑問に答えることなく、さっさと牢塔から出て行ってしまった。
「まさか、正夢になっちゃったとか!?」
それはまずい。
もしかすると、今頃燕明の元へも衛兵が向かっているかもしれない。
「ああでも、今の状況じゃどうすることもできないし、と、とにかく落ち着かなきゃ」
なによりもまずは現状把握だ。
月英はぐるりと牢屋の中を見回した。
月英が放り込まれてたのは貴人用の東の牢塔ではなく、一般用の西の牢塔である。
かつて蔡京玿が収監されていた東の牢塔の部屋よりも随分と質素で、狭い空間に置いてあるのは筵と掛布のみ。牀など当然ありはしない。
西側に収監される者は主に官吏や刑部での審議を待つ者達であり、皆、大抵は慣れない悪環境にまず衰弱し音をあげるという。
衛兵の正気を保っておけという言葉は、そこから発せられたものだ。
薄暗く、窓も手の届かない高さに申し訳程度の穴があるのみで、確かにずっと過ごすことになれば精神が参ってくるだろう。
しかし――。
「わぁ、僕の家より豪華だ!」
月英は逞しかった。
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