1-11 いじっぱり
茉莉花は精油にするまでが少々手間である。
冷浸法を使うのだが、これが数日を要するのだ。精製した豚脂を玻璃板に塗り、その上に茉莉花の花びらを一枚一枚並べていく。これを毎日新しい花びらに取り替え数日繰り返す。こうすると豚脂に茉莉花の香りが移り、練香が出来上がる。
精油にするには、そこからさらに高濃度のお酒と混ぜて蒸留する必要がある。
実に時間と手間がかかる精油なのだが、その分、何と言っても茉莉花の香りは他の花系と比べても重たく濃厚だ。
「ただ精油にすると、ちょっとしか出来ないんだよねえ」
これでは、たくさん花がとれても松明花と一緒ですぐに尽きてしまうかもしれない。
しかしなによりもまずは、お茶と香りの相性の確認である。
「松明花と同じ分量じゃ香りが強くなり過ぎちゃうから、茶葉と一緒に入れるのはほんの少しにしたし」
そうしてやっと出来上がった、茉莉花の移香茶。
淹れたての茶を口に含めば、お茶のまろやかな味わいの後に、鼻腔を花の香りが通り抜けた。
「松明花の爽やかさも好きだったけど、こっちはすごく華やかだね! ねえ、そう思うでしょ万里――」
予想以上に良い出来具合に、月英は喜びを共有したいとばかりに振り返った。
「……あ」
しかし、振り返った先にもう一人の香療師の姿はない。
喜びを共有してくれる相手がおらず、月英の跳ねた気持ちは着地点を見失い急激に萎えてしまった。
気持ちと一緒にすっかりと肩を落とした月英。
「そうだった……万里は今いないんだった……」
正確に言うと、万里が香療房にいる形跡はあるのだが、全く遭遇しないのである。
あの日――万里が刑部に行った日から、彼とは顔を合わせていなかった。
「……分かってるよ。ちゃんと話さない僕が悪いんだもん」
つい二人分注いでしまった、手つかずの茶器が虚しさをあおる。
「でも……」
月英は自分の分を飲み干すと、次いでもう一つにも手をつけグイッと飲む。いや、飲むと言うより喉の奥に流し込んでいた。
そして乱暴に口元を袖で拭うと、月英は香療房の扉を勢いよく開け、外に向かって腹の底からの大声で叫んだ。
「仕事はしろぉぉぉぉぉぉ! 馬鹿万里ぃぃぃぃぃぃぃッ!!」
香療術の施術に移香茶作りと、一人では手に余るのだ。
このままでは過労死してしまう。
「よし。スッキリした」
もやもやした思いも声を共に出て行ったようだ。
「そうだ、どうしたら茉莉花の茶葉を大量生産できるか考えてみよ」
存外に腹の中だけでなく、頭の中もスッキリしていた。
「今度から何かあったら外に向かって叫ぼう。そうしよう」
はた迷惑な鬱憤発散方法を覚えた月英は、清々しい顔してさっさと香療房へと引っ込んだでいった。
その頃、隣の医薬房では――。
「……馬鹿って言われてるわよ」
「ったく、自分のことは棚上げしてよ」
「でも、ワタシも仕事をしろとは思うのだけれどね」
「仕事はしてる」
万里は春廷が薬研で粉にした薬を、必要量だけ量り取り紙に包んでいく。
「これは仕事じゃなくてお手伝いよ、万里ちゃん。アンタのお仕事はコッチじゃなくてアッチ」
「気持ち悪い呼び方すんな」
「ここに居続けるならずっと呼び続けるわよ、万里ちゃん」
心底嫌そうに顔を顰める万里だが、薬を包む手は止めない。
何かしていないと落ち着かないのだろう。
そんな様子の万里を、春廷は横目に捉え鼻から溜め息を漏らす。
「何の喧嘩をしたか知らないけど、さっさと仲直りしなさいよ」
「喧嘩じゃねえよ……喧嘩じゃ……別に……」
口先を尖らせてぼそぼそと言う弟に、春廷はまだまだ子供だなと苦笑を漏らした。
「まあ、ワタシも人のこと言えた義理じゃないけど。アンタは口下手なんだから、言いたいことは必要以上に言葉にするようにしなきゃ。じゃなきゃ、相手には伝わらないのよ」
「……兄貴ぶんなよ」
「ぶるも何も、ワタシはアンタのお兄様なのよ」
オホホ、と春廷は薬研を肩に担ぐと、手をひらひらと振りながらどこかへと行ってしまった。
「オレだって……」
遠ざかる兄の後ろ姿を見つめ、万里は髪を雑に掻き乱すと舌打ちをした。
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