序ー5 捕獲

 月英は、そろり、と遠くの木の陰から香療房の様子を伺っていた。


「とにかく、仕事はしないとだよね」


 そろそろ底をつく精油もあるはずだ。

 万里の物覚えがいいからといっても、まだ彼が作れる精油は限られている。


「でもなぁ……」


 やはり、万里と二人きりになるのは憚られた。


「器具だけ持って、別の場所で仕事しようかな」


 食膳処のかまどを一つ貸してもらえないだろうか。


「ちゃんと話さなきゃいけないんだけどなあ……あぁ、でも……」


 万里の反応を見るのが怖い。

 あれだけ怒っていたのだから、きっと許してもらえないのだろう。

 捕まったら最後。証拠をとられ、そのまま御史台ぎょしだいに引き渡されるかもしれない。


「そうなったら萬華国が滅んじゃう!」


 やはり、ほとぼりが冷めるまで接触は避けるべきだろう。

 これは決して逃げではない。国の滅亡を避けるための致し方ない手段だ、と月英は自分に言い聞かせた。


「それにしても、万里ってどこまで逃げたんだろう」


 香療房の中に人の気配はない。

 月英は恐る恐る近づき、扉をゆっくりと開けてみる。


「お邪魔しま――あっ!」


 声を潜めて入ってみれば、目の前の机に美味しそうな桃饅頭が置いてあるではないか。


「やったあ! 桃饅頭だ!」


 餌に飛びつく猫のようにピュッと房へと飛び込んだ月英は、ためらいなく桃饅頭にかぶりつく。

 ふかふかの饅頭生地ともったりとした餡が、口の中を優しく温めてくれる。

 甘い物は正義である。

 しかし、月英がやっぱり桃饅頭は美味しいなあ、とホクホク顔で咀嚼を終えた次の瞬間、背後でバタンと扉の閉まる音がした。


「え……」


 振り返れば、絶対に遭遇してはならない男が扉の前で仁王立ちしているではないか。


「ぁ……あふ……あぁ……っ」

「やっと捕まえたぞ」


 遭遇してはならない男こと万里が、ニタリと口端をつり上げた。彼の医官服の首元はよれており、額には青筋が立っている。

 平和な話し合いを、という希望は捨てざるを得ないだろう。

 香療房の出入り口は、万里の背後にある一つだけである。


 ――に、逃げ道が……っ!



「だ、騙したな!? 野生の桃饅頭だって思わせて罠だなんて! ひきょうもの!」

「元から桃饅頭は野生してないんだよなあ、バカ」


 背中に冷や汗を流す月英などお構いなしに、万里はずんずんと距離を詰める。


「にしても、こんなので捕まるとかオマエ大丈夫かよ。こっちが心配になるわ」


 呆れた溜め息を吐いているが、彼の足が止まることはない。

 月英は近づく万里との距離を保とうと後ろに下がり続ける。

 しかし、それもすぐに詰む。トン、と背中に壁が触れた。


「し、しまった!」


 前にも後にも行き場をなくし、ならば横だと思った瞬間、その道すらも塞がれる。

 万里が月英の顔の両側に手を置いていた。


「残念。もう逃がさねえからな」

「……っううぅ」


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