序ー4 鬼ごっこ

「おっ、おはようございます!」


 房の中には、右奥の作業台でプチンプチンと花を毟っている青年が立っていた。


「……おはよう? もう昼過ぎなんだけどなあ?」


 青年の顔が、軋んだようにゆっくりと月英に向けられる。

 垂れた目尻が特徴的な品のある顔が、月英の姿を捉えると微笑した。


「随分なご出勤じゃねえか……なあ、せんぱぁい?」



 ――あ、駄目だ。


 目が笑っていない。全然大丈夫ではなかった。

 逃げないと決めたが、人間逃げなければならないときもあると魂が叫んでいる。


「すみません! 頭が腹痛で立てないほどに足が頭痛なんで帰ります!」


 結果、月英は房に踏み入ることなく踵を返し、一目散に香療房から逃げ出した。

 しかし、当然そのまま「ばいばい」と万里が見送ってくれるはずもなく。


「させると思うかよ!」


 毟っていた花を台に捨て置き、万里も月英の後を追って香療房を飛び出した。


「え、嘘っ!?」

「待てやあッ!!」

「嫌あああああああ!」


 全速力で追いかけてくる万里を、月英は香療房と医薬房の隙間や障害物など使い、身体の小ささを利用して振り切る。

 しかし、逃げ回る範囲が狭いこともあり中々に振り切れない。


「なっ、何でそんなに追いかけて来るの!? お兄ちゃんは追いかけずに追いかけてきてよ派だったのに!」

「蒸し返すなあああああ! あんな大男を追いかけてる男の図なんて見たくねえだろ!」

「じゃあ僕は何でなんだよ!?」

「だってお前はおん――っ、っんあああああああ!」


 叫びながら加速する万里。


「ぎゃあああああ! 怖い怖い怖い怖い!」


 まるで熊から逃げている気分だった。

 命懸けの逃走だが、正直そろそろ息苦しくなってきた。

 これでは捕まるのは時間の問題である。

 しかし捕まるわけにはいかない。捕まれば一巻の終わりである。


 ――かくなる上は……っ!


 月英は医薬房に向かって、残った気力を振り絞ってありったけの力で叫んだ。


春廷しゅんていー! 万里が薬草園を荒らしてるよー!」

「あっ、オマエ汚ね――!?」

「何ですって! 吊るすわよゴラァ!!」

「おわああああああ!!」


 薬草園の守護神こと春廷が、医薬房から飛び出してきた。

 片手に持った薬研を振り上げたその形相は、まさに熊を狩る猟師……いや鬼。

 兄弟で本気の鬼ごっこをする羽目になった万里は、月英どころではなくなり遠くへと逃げて行った。


「ふぅ……やっと逃げ切れた。これでしばらくは追ってこれないはず」

「ったく、お前なあ……何やってんだよ」


 やりきった表情で額の汗を拭っていると、医薬房から豪亮が姿を現した。

 その顔はあきれ果てている。


「あ、豪亮。久しぶり」


 おう、と豪亮は片手を上げて挨拶を返す。


「で、今度は何をしでかしたんだ?」

「はは……」


 じっとりと重い目で眺められるが、答えられるわけがない。

 それどころか、どうやって誤魔化そうか悩んでいる最中だというのに。


「あ、豪亮。ねえ、こう……胸が腫れるようなことってなにかある?」


 今朝方も同じ質問を受けた豪亮は、何かを計るような目を月英に向けつつ、万里の時と同じ返答をする。


「……腫瘍か打撲か太ったときだな」

「じゃあ、豪亮に殴られたって言おうかな」


 いないと寂しいが、いたらいたで騒がしいものだな、と豪亮は隣で一仕事終えた後のすがすがしさを醸し出している月英を見やり、溜め息を吐いた。


「何か分からんが、俺を巻き込むなよ」

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