序-3 いざ!
顔を上げると、燕明が頭に手を乗せていた。
「言いにくいことなら言わなくてもいいさ。お前が無事ならばそれでいい」
「……すみません」
猫にするように緩やかに撫でられる手が心地よく、そして、温かかった。
「ありがとうございます」
「ああ」
自分の意思をこれほどに大切にしてくれる人が今までいただろうか。
そんな稀有な存在が、こうして傍にいてくれるということに、月英の心と表情は和やかになる。
「というか、皇帝がこんな場所に護衛もつけずに来るなんて危ないですよ」
燕明は毛先で纏めた黒髪を肩に流し、長袍に羽織を引っ掛けるという簡素な格好だった。
さすがに皇帝と分かるようなものではないが、それでもどこか大家の風流なお坊ちゃんという出で立ちである。
へたをすれば物取りに遭いそうだ。
「それと藩季様はどうしたんです?」
てっきりいつも一緒の藩季がいるのかと思ったが、様子を見る限りそうでもない。
「今回、藩季には遠慮してもらった。あいつがいると、いつも予期せぬ方へといくからな」
「私は父親ですよ!」と随分と粘られたらしいだが、「勅命」という言葉で片付けてきたという。
暴君一歩手前である。
「それに、この間お前を白国に行かせたことで身に染みたんだ」
「何がですか?」
「お前を助けるのは……」
そこまで口にして、しかし燕明は「いや」と口元を手で覆い言葉を打ち切った。
ただ、月英の頭に乗っていただけの燕明の手が、突然、月英の後頭部を強く抱き寄せた。
「うわっ!」
引っ張られるようにして、月英は燕明の胸へと飛び込む。
「え、あの、陛下……!?」
月英が突然何なのだと目を丸くしていると、頭上から声が降ってきた。
「月英……俺はきっとお前が思っている以上に、お前のことが大切なんだよ」
急にどうしたのだろうかと思ったものの、「大切」と言われたことは素直に嬉しかった。
誰かに大切にされる存在であれる自分が、心より誇らしかった。
「へへ、ありがとうございます。陛下」
――僕にとってもこの人は大切な人だな。
皇帝と臣下という枠を超えて、月英は燕明自身をとても好ましく思っている。
彼だけではない。
今や、月英の大切な人達の数は増え続けている。
藩季に呈太医、豪亮に春廷達医官。
そして――。
「どうだ? もう太医院へ行けそうか」
閉じた瞼の裏で彼の姿が浮かぶ。
生意気に「月英せんぱぁい」とわざとらしく呼ぶ、憎めない後輩。
身に纏った浅葱色の医官服を、一人房の隅で嬉しそうに眺めていた格好つけな後輩。
これ以上、彼にもこの人にも心配をかけるわけないはいかなかった。
それに逃げるのは、香療師になったあの日にもうやめたはずだ。
「行けます!」
きっと正面から話せば分かってくれるはずだ。
「では、一緒に行こうか」
差し出された燕明の手を、月英は躊躇わずにとった。
◆◆◆
内朝に入ったところで、燕明に何度も「大丈夫か」確認されたが、さすがに香療房まで着いて来てもらうのは憚られた。
そうして、一人で香療房前まで来たはいいが。
「さて、どうしたものかな」
閉ざされている香療房の扉を開くのが怖かった。
臨時任官された初日に医薬房の扉を開く時ですら、ここまで躊躇しなかったというのに。
「ふぅ……落ち着け、大丈夫だって」
一度深く呼吸をして心を落ち着かせる。
何度も口の中で大丈夫と繰り返し暗示をかける。
そうして扉に手をかけ、勢いに任せ一気に開いた。
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