序-2 一方その頃

「あれ、やっぱり今日も月英は来てねえのか」

「あ、豪亮さん。ども」


 朝早く香療房を訪ねてきた豪亮に、万里は小さく会釈する。


「何か変なもんでも拾い食いしたか? あいつ」


 普通の体調不良を心配されないところが、太医院でアイツがどういう風に認識されているかよく表わしていた。


「もう三日来てないよな」

「そうっすね」


 肩透かしを食らったような顔をしている豪亮を見て、彼らはあのことを知っているのかと、ふと疑問に思う。


「豪亮さん」

「ん、何だ?」

「む……胸部が腫れることってありますっけ」

「胸が?」

「胸部です」

「む――」

「胸部」


 そのこだわりは何なのだ、という目を向ける豪亮だったが、万里の表情はいたって真面目なので、豪亮も真面目に答えることにする。


「腫瘍か打撲か……太ったときだな」

「じゃあ、太ったで」

「何が?」


 秀才の考えることは分からないと、一人ブツブツと思考の旅に出てしまった万里を置いて、豪亮は静かに医薬房へと戻った。



 

        ◆◆◆




 一方その頃、月英の家では家主である月英と客の燕明が筵の上で正対していた。


「それで、なぜ三日も仕事を休んでいるんだ」


 燕明は背筋を伸ばして正座している月英を、上から下までつぶさに眺める。


「見たところ、飢餓でも病でもなさそうだが……」

「病より先に飢えが出てくるってどうなんですかね」

「お前は常に空腹だと認知しているからな」

「得てはいけない認知を得てしまった」


 ちょっと人より食いしん坊なだけである。


「ちゃんと働いてお給金も貰ってるんですから、今はもう餓死することなんてないですよ」


 燕明は、そうかそうかと嬉しそうに頷いた。


「腹を空かせてないのなら良かったよ。やはり、出会ったときの印象が強くてな……お前を見ると食べさせなければと思ってしまう」

「でも、ここ三日は外に出られなかったんで、藩季様からの干し棗でしのいでましたけど」

「やっぱりな!」


 燕明は懐に手を突っ込んだと思ったら、目にも留まらぬ速さで月英の口元に肉饅頭を押し込んだ。

 久しぶりの温かい食事に、月英はとろけた顔してほがほがと肉饅頭を咀嚼していく。あっという間に肉饅頭が消える。


「うむ。良い食べっぷりだ。やはり病ではなさそうだな」

「ええ、いたって元気ですよ。ご心配ありがとうございます」

「では、なぜ太医院に出てこないんだ?」

「それは、その……」


 月英は燕明から視線を逸らし、どう答えたものかと考える。

 万里に自分が女とばれたと言ったら、燕明に余計な心配をかけてしまうだろう。

 しかも、常々気をつけろと口を酸っぱくして言われていたのに、こうなってしまってお説教如きで済みそうにない。


 ――それに、万里には迷惑かけたくないし……。


 きっと、燕明は自分のことを万里よりも優先的に考えるだろう。そして、万里を医官から異動させ官吏に戻すことくらいやってのけるかもしれない。

 それは月英の望むところではない。


 やっと自分の気持ちに素直になれた万里が、自分で選んだ医官――香療師という道なのだ。

 月英も、せっかく得た香療師仲間を手放したくはない。

 しかし、燕明に嘘をつきたくもない。

 どうしたものか、と香療術以外の知識は少ない頭で懸命に考えていると、ぽんっと頭に重みを感じた。


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