4-10 強く気高く

 ここでもし彼女が『帰りたい』と言えば、月英はすぐさま燕明の私室に駆け込み、どんな手段を使ってでも帰郷の許可をもぎり取るつもりだった。

 れた時間が過ぎる。

 しかし亞妃は、はっきりと迷いない声で言った。


「いいえ」

「亞妃様、本当ですか」

「ええ、本当ですわ」


 言い切った亞妃の顔は、確かに少しの陰もない。真っ直ぐに月英を見つめる灰色の瞳には、光が射し込み美しく輝いている。


「ふふ、たくさん嘘を吐いてしまいましたもの。信じていただけないのも当然ですわ」


 ですが、と亞妃は手にした弓に、甘えたように頬ずりをする。


「もう、わたくしは大丈夫です。何も、初めから寂しがることなどなかったのですね。わたくし、いつの間にか下ばかり向いて皆様のことを見ていませんでした。自分の境遇を嘆くばかりで……情けないですわ」


 しかし、情けないと眉を下げつつも、亞妃の弓を見る目はどこか嬉しそうであった。


「父がこれを贈ったということは、そういう事なのでしょう。生きる場所は自分で選べと。土の民は、欲しいものは全て己の力で得てきた者達です。土地も食べ物も全て。時には馬を駆り、弓を引いて、血を流してでも。だから……そういう事なのです」


 自分の居場所は自分で勝ち取れ、という事なのだろうか。確かに、大于が言うに良く似合う台詞である。

 亞妃は椅子から腰を上げた。

 弓を手にして堂々と胸を張って立つ亞妃の姿は、彼女を剛気と評した大于によく似ていると月英は思った。

 すると、亞妃はおもむろに自分の頭へと手を伸ばし、そうして、唯一の髪飾りだった歩揺を勢いよく引き抜いた。

 たちまち、大きく波打った灰色の髪は鳳が羽を広げるように解け、彼女が頭を振れば羽ばたきのごとく背中で踊る。

 射し入る光を受け白銀の雪のように輝く髪は、見る者の目を奪うほどに優美であった。

 そして彼女の表情も今は、大空を自由に飛ぶ鳳のように解放感に輝いている。

 亞妃は天井を仰ぎ、気持ち良さそうに首を伸ばした。


「どこにいようと、わたくしはわたくし――萬華国皇帝華燕明様の第三妃、亞妃ですわ」


 高らかに宣言した亞妃は、清々しさで溢れていた。

 邑という概念を持たず、国という囲いも持たない北の民。

 なにものにも縛られず、行きたい先まで求めることを許された大地に住まう人々は逞しい。一所に留まることをせず、常に風のように揺蕩い生き続ける。

 そのしなやかさこそが、彼らが峻厳な地で身に付けた強さなのかもしれない。

 月英も春万里も、眩しいもの――それこそ朝日に輝く一面の待雪草スノードロップを見るような目で、亞妃を見つめた。

 見ている方まで、心が洗われるような心地であった。





「ありがとうございます、お二人とも。危うくわたくしはここでもまた、大切なものを見落とすところでした」


 亞妃は月英の手を取った。

 これまで月英が亞妃の手を取ることはあっても、逆はなかったというのに。初めて握られた月英は、目を瞬かせている。


「こんなに近くに、差し伸べられた温かな手があったのですね」

「気付いてくれて嬉しいです」


 手を握り見つめ合う月英と亞妃。

 笑みを分かち合った部屋には、最初の頃の凍てつくような空気はどこにもない。春という季節によく似合う、和やかな暖かさだった。


「あの、香療師様、よろしければ御名で呼ばせていただいてもよろしいでしょうか」

「もちろんです。月英って呼んでください」

「月英様……それと、欲張りなのは重々承知しているのですが、わたくしのことは、どうぞリィと呼んでくださいませんか?」


 もじもじと頬を赤らめて言う亞妃に、月英は「良いですよ」とあっけらかんと答えたのだが、なぜか隣の万里の方がソワソワしている。


「ちょっと何、万里! おしっこなの!?」


 ここで漏らされても困るので、我慢せずにさっさと行ってほしいものだが。

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